渋沢栄一翁が生きた時代、日本人の多くは「命は借り物」と考えていた(写真:近現代PL/アフロ)

科学や医療技術の発展によって人類は寿命を大きく延ばしている。今では老化のメカニズムも徐々に明らかになり、加齢や加齢による機能低下を制御するような研究も世界で進められている。命あるものは必ず寿命を迎える。これは自然の摂理だが、その寿命を少しずつ延ばしてきたのが人類である。

新型コロナのパンデミックに関しては、ワクチンが登場し、ひと頃の底知れぬ不安は解消しつつある。だが昨年春には、愛する人をなすすべもなく見送らざるを得ないという状況が世界各地で生まれた。仮に新型コロナを克服したとしても、いつ次の感染症が到来してもおかしくはない。

コロナ第5波の到来が確実視される今、卒寿を迎えた宗教学者の山折哲雄氏と、日本人の死生観について考える。(聞き手、篠原匡:編集者・ジャーナリスト)

【目次】
・(2ページ)老病の段階で既に死を体験していた日本人
・(3ページ)
寺田寅彦の「無常」を形成した関東大震災
・(4ページ) 
『風土』で描かれた「共同体の倫理」の背景
・(5ページ)
大の地震嫌いだった谷崎潤一郎が伝えたこと
・(6ページ)アンドロイドの世界に死はあるか?
・(7ページ)
カズオ・イシグロが描くリベラルヒューマニズムの終焉
・(8ページ)
「殯(もがり)」が示す死の連続性

──医療の発展によって人類は様々な感染症を克服してきました。ただ、未知の感染症の登場によって、一度は遠くなった死が再び身近に迫っているような感覚があります。今回のコロナ禍は日本人にどのような影響を与えたとお考えでしょうか。

山折哲雄氏(以下、山折):それはもう、結論ずばりですな。いつ誰が、どこでどのように死ぬかわからない状況になったという点では、少なくとも近代になってからは初めての経験でしょう。とりわけ、誰もが平等に死んでいくというところが今回のポイントでしょうな。

 それを象徴する出来事が、今回のコロナでは2つあったような気がします。一つは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんがある記事の中で語っていたことですが、今回のコロナによって、障害者と健常者が平等な関係にあるということが、生の形で、あからさまに現れたということです。

 私が言外の意味をくみ取っただけで明言はされていませんが、障害者にとって明るいニュースという意味が込められていたように思います。それまで障害者は健常者の影に隠れて辛い思いをしてきた。その中で、初めて平等という感覚を初めて味わった、と。

 もちろん、健常者も障害者も平等に死ぬという意味です。この発言を見た時は衝撃を受けました。でも、それに類する人々にとっては、ある種の共有された思いなのだろうと感じました。

 もう一つは、ほぼ同時期に起きたことですが、「納体袋」の問題です。

──遺体を入れる袋?

山折:そうです。最近では病院関係者のご尽力もあってコロナ患者と面会できるようになっていますが、コロナが感染した当初、コロナで亡くなった人は納体袋に入れられ、遺族と対面することなく人知れず運び出されていました。これも、人の「葬り方」としては日本では、近代以降では初めてのことです。