連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

『ペリー日本遠征記(法政大学出版局刊・国立国会図書館蔵)』の中に描かれた当時の男女入込湯。身体を洗う流し場と湯槽の間には柘榴口と呼ばれる鴨居が取り付けられている

「性行為」と「倫理」というのは、本来、折り合いが悪く背反し合うものである。

 人間の歴史が始まって以来、いつの時代でも、どこの場所でも、不義、密通、不倫、背徳の男女関係は顕在し、性行為は躬行(きゅうこう)されてきた。

 かつては「性道徳」という言葉が人々の性欲を縛っていた。

 いまも、その言葉は細々と生き続けているものの、既に死語に等しいものになっているのが実情ではないだろうか。

 私自身、性道徳という言葉に縛られる硬直した社会の風潮よりも、誰もが自由に解き放たれた嫋(たお)やかさを備えた世の中の方が、人間は基本的に幸せになのではないかと思うのである。

 性道徳とは明治時代以降の西欧的近代主義と、キリスト教や儒教などの思想を混ぜ合わせた不合理で偽善的な如何物(いかもの)で、そこで強調されるのは、未婚の男女の「禁欲」と「純潔」を守ることだった。

 誘惑に負けて禁欲を破ったりした若い男女は性道徳の前で罪悪感に苦しむことになる。そこから「性を恥ずべき罪だ」とする歪んだ意識が生まれ、以降、社会に浸透していった。

 そして性道徳は長きにわたり、多くの女性たちの性欲に罪の脅しをかけ、下半身に貞操帯をさせるような呪縛をかけ続けた。

 だが、その一方で性道徳は男性については寛容さを示していた。

 女性に対しては「禁欲」と「純潔」を重んじろと訴える傍らで、男性のためには公娼制度、つまり公認の売春の機会と場所が、全国のいたるところで用意されていたのである。

 また、経済力に恵まれた男が、妻以外の女性を妾として公然と囲うことも、かつては珍しい話ではなかった。