ミャンマーの首都ヤンゴンにあるインセイン刑務所から釈放される政治犯(写真:AP/アフロ)

 かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏の手記の3回目。念願の脱北を果たした李泰炅氏だが、タイに向かう途中のミャンマー国境で拘束されてしまう。

※1回目「『地上の楽園』北朝鮮に渡った在日朝鮮人が語る辛苦」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64819)
※2回目「脱北した在日朝鮮人医師が体験した脱出劇のリアル」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65006)

(李 泰炅:北送在日同胞協会会長)

 私は中国の延吉(ヨンギル)から汽車に乗った。北京に到着後、アン・チャンスという朝鮮族のブローカーに会い、1000ドルを先払いすると、小さな部屋に通された。そこで出発まで1カ月半も待たされる。その後、延吉からミャンマーの検問所にたどり着くまで、4人のブローカーの手を経たことになる。

 ミャンマーは135の少数民族からなる国だ。私を案内してくれたブローカーも、私を捕まえた警察官も、それぞれ異なる民族だったように思う。私の額に銃口を当てた警察官は巨大なゴリラのようだった。検問所では冷たい手錠をはめられた。感電したかのように体がぶるぶる震えた。27年もの間、脱北を夢見ながらあらゆる苦難に耐えてきたのに、その夢が壊れた瞬間だった。

 検問所で体を縛られてから刑務所に入るまで、捕まったという実感が湧かなかった。刑務所に入って3日間、一睡もできず、何も食べられなかった。眠りたくなかったし、食欲もなかった。夜になると、妻と娘が面会に来てくれる夢や幻覚を見て、つかの間だが心が癒された。

 北朝鮮に送還されると警察官に宣告された。生きている意味がもうなかった。青いペンキが塗られたコンクリートの壁に頭を打ちつけた。痛い。軽くぶつけただけなのに、死ぬほど痛い。さらに強く打ちつけた。そして、もっと強く・・・。目の前に星が飛ぶ。大きなハンマーで叩かれたかのように、頭の中で音が響いた。

 苦労して生きてきた56年間が惜しく、連子窓の中に閉じ込められている自分が情けなかった。悔しかった。しかし我に返り、生き残らなければと思った。「自殺」はやはり、誰にでもできることではないようだ。

 幸いなことに、私は裁判を受けることができた。しかし難民として認めてはもらえず、不法入国罪で3年の刑を言い渡された。「私は阿片の密輸業者でもないし、殺人犯でもないし、強盗でもない。生まれ育った日本に帰りたいだけの亡命者だ。国際法でも亡命者は助けることになっている」と主張したが、ミャンマーも自由と人権が保障される国ではなかった。