1868年頃の渋沢栄一。提供:桜堂/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(8)「平岡円四郎①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65340
渋沢栄一と時代を生きた人々(9)「平岡円四郎②
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65341

安政の大獄と平岡の挫折

 安政5年(1858)4月23日、将軍継嗣問題と条約締結問題を抱え、危機的な状況にあった幕府では、井伊直弼が突如として大老に就任し、辣腕を振るい始めた。井伊は6月19日に通商条約の違勅調印を強行し、6月23日には堀田正睦・松平忠固の両老中を罷免した。

井伊直弼画像

 違勅調印を踏まえ、24日に一橋慶喜実父の徳川斉昭、徳川慶勝(尾張藩主)、徳川慶篤(水戸藩主)が不時登城し、井伊に条約の無断調印を面責したが、これは将軍継嗣の公表を遅らせる深謀があったからである。この日、松平春嶽も登城し、老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を勧説している。

 6月23日、慶喜は招かれて江戸城内で井伊に対面し、違勅による無断調印を詰問したが、暖簾に腕押し状態でらちが明かず、一方で慶喜は将軍継嗣を井伊に確認し、家茂内定を伝達されている。間髪入れず、井伊は6月25日に家茂の継嗣発表、そして7月5日に慶喜の登城停止、斉昭・春嶽らの隠居・謹慎の沙汰を下した。ここに、一橋派の敗北が確定したのだ。いわゆる安政の大獄の始まりである。

徳川家茂像

渋沢栄一と時代を生きた人々(5)「井伊直弼①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64827
渋沢栄一と時代を生きた人々(6)「井伊直弼②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64841
渋沢栄一と時代を生きた人々(7)「井伊直弼③」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64843

 慶喜への理不尽とも思える沙汰に連座するように、平岡円四郎にも厳しい運命が待っていた。平岡は一橋家・慶喜から引き離され、小十人組へ降格させられ、次いで小普請組入りを命じられ、さらには、甲府勝手小普請に左遷された。事実上、江戸からの追放である。これは、井伊がいかに平岡の政治力を恐れていたかの裏返しであろう。