嘉永7年(1854)横浜への黒船来航。ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ。

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(8)「平岡円四郎①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65340

将軍継嗣問題と平岡の立場

 平岡円四郎が一橋家に出仕したのは、嘉永6年(1853)12月であった。実はその半年前の6月、幕末の動乱の火ぶたを切るペリー来航という大変事が出来していた。ペリーは、和親と通商を求める大統領フィルモアの親書などを幕府に渡し、1年後に再来航すると言い残して日本を去った。その僅か10日後の6月22日、第12代将軍の徳川家慶が急死し、第13代将軍として家定が後を継いだ。

徳川家定像

 しかし、家定は生まれながら病弱で暗愚であり、世継ぎの誕生も難しいとされた。既に家慶時代から憂慮されており、ここに将軍継嗣問題が持ち上がり、一橋慶喜を推す一橋派と紀州慶福(後の家茂)を推す南紀派の抗争に発展した。

 一橋派の推進者は、松平春嶽(福井藩主)・島津斉彬(薩摩藩)ら有司大名、水戸藩関係者(安島帯刀他)、老中阿部正弘、そして岩瀬忠震を始めとする海防掛などであった。彼らは英明・年長・人望ある将軍の下で、つまり将軍慶喜の下で、幕府権威の再強化を図ると同時に、自己の幕政参画を期待していた。

松平春嶽

 一方で、南紀派の推進者は、徳川公儀体制(=現状)の維持を図る譜代大名が中心であり、特に妹が12代将軍家慶の側室であった紀州藩附家老・水野忠央による大奥工作が有効であったとされる。彼らは血統重視を最重要と考え、また今まで政治に関われなかった外部からの意見を拒否し、水戸斉昭を嫌悪する集団として結束したのだ。

 平岡は一橋家家臣として、慶喜の擁立に奔走することになる。ちなみに、慶喜は自身が将軍継嗣となることに否定的であったとされるが、その真相はいかがであろうか。

 そもそも、「ぜひ、私にやらせて欲しい」などと公言することなどできるはずもなく、表向きは「その器でない」と発言することになる。また、慶喜は実父斉昭が大奥の受けが極めて悪いことを知っており、慎重を期したこともあろう。いずれにしろ、最側近である平岡が慶喜の心中をないがしろにして行動するとは思えない。平岡が勝手にしたこととして、慶喜自身も将軍継嗣を期待していたと考えたい。