平岡が役職を務めていた湯島聖堂・昌平坂学問所(東京都文京区)

(町田 明広:歴史学者)

知られざる偉人・平岡円四郎

 平岡円四郎(1822~1864)は、徳川慶喜が一橋家の当主であった時代に、最側近として大活躍した人物である。NHK大河ドラマ「青天を衝け」においても、重要なキーマンとして登場している。しかし、その生涯は僅か40年余りに過ぎず、しかも、その名前が歴史に登場するのは安政5年(1858)の将軍継嗣問題の時から、暗殺される元治元年(1864)までと短期間であり、現在も語られることが極端に少ない人物である。

 しかし、慶喜が歴史に名を残せたのは、平岡の活躍もあってのことである。慶喜の前半生、例えば将軍継嗣問題における慶喜擁立運動、将軍後見職時代の文久の改革、朝政参与時代の薩摩藩との暗闘、禁裏守衛総督・摂海防禦指揮への就任など、平岡が陰で支えていたことは数えきれないほど多い。

 一方で、それだけの実績があるにも関わらず、その名前が歴史に埋もれていることは実に惜しいことである。これほどの重要人物でありながら、十分な史料が残されていないことも相まって、その実像がよく見えない平岡について、3回にわたって連載させていただく。

平岡の生い立ちと2人の父親

 平岡円四郎は、文政5年(1822)10月7日、旗本の岡本花亭の4男として生まれた。実はこの父親が只者ではない。やや詳しく紹介しておこう。花亭は明和4年(1767)10月3日生まれの幕臣で、勘定奉行の下役であった。文政元年(1818)3月に貨幣改鋳への建議を行ったことから、11代将軍徳川家斉の大御所時代を牛耳っていた老中首座・水野忠成に嫌われ、小普請に左遷された。

 天保8年(1837)12月、花亭は老中首座・水野忠邦に抜擢され、信濃中野代官となった。翌9年(1838)3月の江戸城西ノ丸の炎上に際し、普請助成の賦金が沙汰されると領民に諭書を配布し、2700両の献金を得た。これは花亭の日ごろの民政への腐心が、領民の支持を得ていた証左であろう。

 ちなみに、同年の冷害にあたっては、幕府に懇請して下賜金を得て領民に分配・減税を施した。こうした才覚は、平岡に引き継がれたのではなかろうか。

 こうした功績から、天保10年(1839)5月に勘定吟味役に抜擢され、同13年(1842)5月には勘定奉行に昇進、500石を加増され勝手方を務め、近江守に推叙された。嘉永3年(1850)9月23日死去、84歳であった。

 なお、漢詩人として極めて高名であり、著作に「花亭詩集」などがある。また、花亭は矢部定謙・川路聖謨らと親交があった。特に川路との縁は注目すべきであり、花亭が縁で川路は平岡を知ったとするのが妥当であろう。

川路聖謨

 天保9年(1838)3月、平岡は旗本・平岡文次郎の養子となった。文次郎と花亭の関係性や、どのような経緯で養子となったのか、などを明らかにする史料は見当たらない。

 なお、同年、文次郎は南会津の天領地に代官として赴任する。天保10年の凶作に際して、江戸からジャガイモを取り寄せ、農民に作付けを指導して大成功を収め、南会津の農民を飢餓から救っている。2人の父親ともに民政に優れ、領民から慕われている共通点がある。いずれにしろ、平岡の聡明さ故の養子縁組であったと考える。