台湾東部・花蓮県の脱線事故現場で作業する救助隊員たち(2021年4月3日、写真:ロイター/アフロ)

(平井 敏晴:韓国・漢陽女子大学助教授)

 コロナが終わったら、花蓮(かれん、ホワリエン)に行こう。

 台湾の東海岸に面するこの街は、戦前は花蓮港市と呼ばれた。太魯閣(タロコ)観光の拠点として知られているくらいで、街中に取り立てて何かがあるというわけではないが古き面影が残り、最近は小洒落た建物も目立つようになった。市街地には、かつて港まで伸びていた線路の跡がそのまま残され、市民の憩いの場となっている。

 初めて訪ねたときから、この街にどことなく惹かれてしまった。そして何度か訪ねるうちに、かつて移り住んだ日本人の営みを知るようになった。

 4月2日に花蓮で特急列車が脱線して、50人の方が亡くなり、200人以上が負傷した。日本では、この悲惨な事故によって花蓮の名が一躍知られることになってしまったが、戦前に花蓮と日本の間に深い関わりがあったことは、ほとんど語られない。今回は、知られざる“花蓮開拓”の歴史を紹介したい。

過酷を極めた原野の開墾

 花蓮はもともと日本人がつくった街だ。