ファッション業界の枠を超えて、今最も社会に影響を与えているデザイナーのひとり、相澤陽介さんに迫るスペシャルインタビュー。その前編では、大手企業や公共団体との仕事を次々と成功させてきた、​彼のビジネス哲学を伺った。

写真・文=山下英介

お気に入りだという、2021年春夏モデルのコートを着て取材に臨んだ相澤陽介さん

長すぎるプロフィール

 2006年、〝ホワイトマウンテニアリング〟設立。2012年、ミズノとのコラボーレートでロンドンオリンピック日本選手団のユニフォーム制作。2019年、北海道コンサドーレ札幌のクリエイティブディレクター就任。同年、リーガロイヤルホテル大阪のユニフォーム制作。2020年、クロネコヤマトのセールスドライバーと受付スタッフのユニフォーム制作。同年、トヨペットのエンジニアスーツ制作……。紙の雑誌であれば、これだけで指定の文字数が尽きてしまうほどに、相澤陽介さんのプロフィールは長い。あくまでこれはウィキペディアでも閲覧できる程度の概要であり、今までにコラボレートしてきたブランドを列挙すると、さらにその数倍の文字数を必要としてしまう。もちろん、自身のブランドで毎シーズンごとにデザインする洋服の数だって膨大だ。いったいこの人の創作意欲はどこから湧き出し、それをどう維持しているのか? 考えれば考えるほど不思議……というか心配になってしまうほどである。

コム・デ・ギャルソンに在籍していた頃は、年に4回のコレクションを手がけ、20代前半からパリに出張するなど、多忙な日々を送っていた相澤さん。デザインにおける影響こそ伺えないが、その頃の経験が、いまのブレないものづくりを支えているという

──実績の数々を拝見していると、とんでもないワーカーホリックのようなイメージがありますが、普段はどんなふうに仕事をされているんですか?

相澤:いやいや、そんなでもありません(笑)。普段はプレスルームの近くにあるアトリエで、ひとりで作業をしています。朝は8時くらいに出勤していますが、基本的に暗くなると帰るし、徹夜も絶対にしません。仕事を家に持ち帰ることもありませんね。だからうちのスタッフとは時間帯が合わないんですよ(笑)。

──それにしても、実績を列挙するだけでこの文字数。大企業やオリンピックなど、ビッグプロジェクトの多さにも驚かされます。若かりし頃に、この状況を想像されていましたか?

相澤:いや、ぜんぜんしていませんでしたね。もともと大学生の頃は、現代美術家になりたかったんです。ただ3年間で形にならず、自分には才能がないな、と諦めました。家庭の事情で就職は絶対しなくちゃいけない、というときに、就職課に〝コム・デ・ギャルソン〟のポスターが貼られていたのを見たんです(笑)。それまでは一度も着たことはなかったんですが。

 

本場仕込みのアイビーを知る、父からの教え

シンプル&モダンな装いで知られる相澤さんだが、時計は意外にもアール・デコ調のデザインが美しい〝パテックフィリップ〟の『ゴンドーロ』。ちなみに彼の愛車はポルシェの964『カレラ2』。モダン指向に思われがちだが、古いもの、クラシックなものの魅力も誰よりも知っている

──そもそも、ファッションはお好きだったんですか?

相澤:今はなき僕の父親は、「図案屋」(今でいうグラフィックデザイナー)と呼ばれる仕事をしていたんですが、1960年代のベトナム戦争真っ只中のときに、米軍基地のある福生の近くで丁稚奉公していたんですね。村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』よりずっと前の福生のイメージですが、父はそこで遊んで、洋服を買い漁って……という生活を送っていたそうです。ですから僕が生まれた頃、父のクローゼットには、一番好きだった〝ブルックスブラザーズ〟をはじめとするアメリカ製のシャツが何百枚もありました。しかもカレッジとかミリタリーとか、洋服をカテゴリー分けして保管していたんですよ(笑)。そんな環境で育ったので、同世代と較べると、とても早い時期からファッションに触れていました。父親から教わったことは、本当に多いですね。

──お父様は「ビームス」や「ポパイ」よりも早く、本場のアメリカンファッションに親しんでいたんですね! 相澤さんが20代にして自身のブランドを立ち上げ、たった数年で人気ブランドに育て上げた背景には、そういうルーツがあったんですね。

相澤:いや、そううまくはいかないですよ。〝ホワイトマウンテニアリング〟を立ち上げた頃のファッションって、エディ・スリマンや〝ナンバーナイン〟に代表される、ロックな洋服の全盛期だったんです。それと、裏原宿系に代表されるストリート系のどちらか。僕が打ち出した「アウトドア」というコンセプトは、当時はなかなか理解してもらえませんでした。マーケット的に値段が高いという先入観も相まって、最初の2年間は相当厳しかったですね。ブランドを掛け持ちしたりして、なんとか生きていました(笑)。

 

うまくいったことなんてない

──順風満帆なイメージがあったので、意外ですね。

相澤:それでも、トレンドマーケティングで安いものをつくってお金を稼ぐ、という考えは全くありませんでした。自分ができる範囲で、いちばんいいモノをつくる、ということはずっと貫いているんです。だからまだブランドが立ち上がっていないのに、ゴアテックス社に素材提供のお願いをしに行って、ウールツイードのゴアテックスを共同開発しました。ファーストシーズンからゴアテックスが使えたブランドは、ウチくらいじゃないかな? 〝パタゴニア〟の創業者であるイヴォン・シュイナードは、昔から高品質なものを買い換えずに長く使うことの大切さを説いていましたが、僕もそういうことをやっていきたいな、と思ったんです。

〝ホワイトマウンテニアリング〟の2021年春夏コレクションより。洋服の構造を知る人間なら誰もがうなる複雑怪奇なパターンや、素材の組み合わせを駆使しながらも、決して方法論のみに囚われず、あくまで日常を快適に過ごすためのデイリーウエアに落とし込んでいる点が真骨頂。従来のモードとも、ストリートブランドとも全く違うこのアプローチは、相澤陽介さん以前は存在しなかった

──2006年当時といえば、まだ「サステナブル」という言葉は広まっていませんでしたよね?

相澤:父が遺したワードローブは、着られなくなった今でも手元に置いています。僕もそういうものをつくりたいと思って、15年間相変わらずやり続けているんです。

──そういう苦労時代もあったんですね。

相澤:もちろん。というか、うまくいったときなんて、あまりないですよ。売り上げが過去最高によかったかと思えば、次のシーズンにチャレンジして下がったり、その後はコロナ禍がやってきて、ここまで長引いたりしますから。ブランドをやっているといつも心配で、毎晩夢にうなされるような感覚がありますね。

 

デザイナーが大企業と仕事をするということ

──近年の相澤さんは、大手企業のユニフォーム制作のお仕事が続いていますが、この流れはどうやって生まれたんですか?

相澤:2012年にミズノさんと共同制作した、オリンピック日本選手団公式ユニフォームがきっかけだったのですが、僕が楽しかったというのが、続いている理由かもしれません。

 ユニフォームの仕事って、すごく大変なんですよ。ファッションブランドとのコラボレーションなら、ある程度僕のことをわかってもらった上で仕事をさせてもらえるじゃないですか。相澤ならアウトドアとかスポーツに強いだろう、とか共通言語がある。しかしユニフォームの場合は、デザインやファッションのことを全く知らない人に、自分の考えていることを伝え、プロダクトをつくって、納得してもらわないといけないんですよ。その間には、「こんなことあるの?」という事件が日々起こるわけです。

 たとえばボーダーのシャツがいいだろうと思って色々とデザインをしてプレゼンしても、関係者に「ボーダーは太って見えるからイヤだ」と一瞬で却下されたりします。それでも絶対に形にしないといけないから、ファッションとは全く違うロジックでデザインを産み出し、それを自分で説明できないといけない。僕は、そのプロセスが面白いと思ったんです。

──あ、クリエイターだったらちゃぶ台をひっくり返したくなりそうな場面ですが(笑)、相澤さんは「面白い」と思えたんですね。

相澤:そう思うことにしました。もちろん理不尽だとは感じますよ。でも冷静に見ていけば、逆の見方もあるわけです。僕はオリンピックの舞台に立ったこともないし、自動車をつくったこともない。だから向こうの立場としては、「もっと自分たちの考えを汲んでくれよ」という気持ちもあるんだろうな、と認識したんです。

相澤陽介さんがデザインを手がけ、2020年9月からヤマト運輸で採用されたユニフォーム。20年ぶりのリニューアルとなったこちらの制服は、東レと帝人フロンティアの協力のもと、環境に優しい新素材を開発。安全性や耐久性、快適性にも徹底的にこだわり抜いている。日本の街の風景を変えたデザインだ

 ヤマト運輸さんのような大企業との仕事の場合、何百デザインもつくりますし、80ページを超える本のような資料をつくって、いろんな角度から提案します。だからひと口にユニフォーム制作といっても、俗にいうデザイナー先生、という方々とは、全く違う仕事をしているんだろうな、と思います。

──リサーチや勉強もしなくてはいけませんね。

相澤:北海道コンサドーレ札幌の場合はクリエイティブディレクター職になるわけですが、当然反対意見もあるので、それをどう自分の言葉で覆していくか、ということが大切です。だから「なんとなく格好いいから」なんてことは絶対言えません。就任前に徹底的に世界中のサッカーユニフォームを調べて、この分野においては僕が一番詳しいんじゃないか、という状況になるんです。だからまずは調べて、デザイン画を描くのは最後ですね。

 

デザイナーは「先生」じゃない!

──確かに、「先生」的な仕事とは正反対ですね。

相澤:絶対に違うし、やめてくれと言いますけれど、それでも老舗の企業に行くと、「先生」と呼ぶ人がいるんです(笑)。かつてそういう時代があったんでしょうね。でも、僕は教育という意味での「先生」ならいいんですが、いわゆる「デザイナー先生」のような存在になってはいけないと思います。だからヤマト運輸なら物流センター、トヨペットなら修理工場にユニフォームを着て行って、「この素材は伸びが悪いなあ」とか、着る人と同じ目線になってデザインすることは大事にしています。

クリエイティブディレクター職を務めるサッカーチーム、北海道コンサドーレ札幌では、ユニフォームやアパレルの制作のみならず、同チームのブランディングにまつわるすべてを統括。今までのファッションデザイナーが見て見ぬ振りをしていた領域にまで、足を踏み込んでいる
©️2021 CONSADOLE

──でも、ここまで実績を積み重ねちゃうと、「相澤さんにお願いしときゃ大丈夫だろう」みたいな頼まれ方になってきますよね?

相澤:ああ、その場合は逆に僕のほうから、先方に問いを投げかけていきますね。自分たちの会社のことは自分で考えないといけないし、それに対して応えるのが僕の立場ですから、と。

──企業側にも思考を迫るわけですね。

相澤:北海道コンサドーレ札幌の場合は、グッズの売り上げを高めるという大命題があります。これはJリーグ全体の問題でもあるのですが、広告に依存しすぎて、全収入におけるグッズ販売収入の割合って、10%に満たないわけですよ。これはヨーロッパと較べると、明らかに低い。僕自身もヨーロッパでサッカーを観に行くときはユニフォームを買ったりするのに、どうして日本では買わないんだろう?とずっと不思議だったのですが。

 ただ、これを数倍にしようとしたら、僕の力だけではどうしようもない。だから、「シャツを何型つくりましょうか?」と聞かれたりするのですが、僕はそれに対して、「何型つくってほしいですか?」と聞き返します。それで5型をこれくらいの予算で組む、となったときに、僕ははじめてそれに対してコンセプトを立案したり、カワイイもの、カッコいいもの、売りやすいもの……といった具合に構成ができるわけです。そういうやり方を続けていけば、チームの中でも予算組みのイメージができあがってきますよね。

 だから、デザインを一方的に押し付けるのではなく、一緒に考えていこう、というのが僕のやり方です。相澤さんに頼めばなんとかなるだろう、という人もいますが、それでは人も育たないし、なんともならないですよ(笑)。

──予算意識が高いんですね。

相澤:お金のことを理解したうえで、戦略を立てながらものづくりしないといけないよ、ということはうちのスタッフにもよく言います。ただ、そういうやり方って逆にお金が稼げないんです。シャシャッとデザイン画を書いて「これでよろしく」といくほうが効率いいでしょうから(笑)。

 

相澤陽介が未来のクリエイターに伝えたいこと|〝社会に挑む〟デザイナーの仕事術(後編)

 

あいざわ・ようすけ(デザイナー)

1977年生まれ。多摩美術大学染織科を卒業後、2006年にWhite Mountaineeringをスタート。これまでにMoncler W、BURTON THIRTEEN、adidas Originals by White Mountaineeringなど様々なブランドのデザインを手がける。2019年からは、北海道コンサドーレ札幌のディレクターにも就任。また、2020年春夏よりLARDINI by YOSUKE AIZAWAをスタートする。その他、多摩美術大学の客員教授も勤める。