空から見た軍艦島(写真:軍艦島を世界遺産にする会資料、以下同)

 ※1回目「石炭を掘るためだけに存在した軍艦島が語る未来」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64178)
 ※2回目「今も色鮮やかによみがえる軍艦島での日常生活」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64267)

 外側から見ると窒息しそうに見えるが、軍艦島こと端島は意外なほど整備されており、人が往来する十分なスペースがあった。島には病院があり、お産婆さんがいたし、寺もあった。食堂や映画館だけでなくパチンコもあった。島の平坦な部分は炭鉱のための施設である。限られた残りの空間に住居を建て、人を住まわせる技術は、並大抵ではなかっただろう。

 戦前は3軒の遊廓があった。

 島の住民は、大半が家族で暮らしたが、独身者もいた。大正6(1917)年に朝鮮人工夫を募集してからは、単身の朝鮮人労働者も暮らすようになった。それゆえに、このような施設が必要だったのだろう。

 3軒のうち「本田」と「森本」は日本人用で、「吉田」は朝鮮人専用の遊廓だった。

 昭和8(1933)年の新聞に「本田伊勢松氏の経営する料亭本田屋が多情多彩の情緒をもって炭紛にまみれた坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれるのも炭坑端島のもつ、柔らかな一断面である」という記事がある。料亭すなわち遊廓が危険な仕事を終えた彼らの心身に少なからぬ影響を及ぼしたのだろう。

 義理の叔父が子供の頃、遊廓の女性たちと道端で会うと「ピータン、ピータン」と呼び掛けていたと話してくれた。

 韓国人から「強制労働」といういわれのない発言と謝罪要求が出ているが、百歩譲って韓国人のいう通りだったならば、朝鮮人労働者のためになぜ遊廓を置いたのだろうか。大きな矛盾がある。

 過酷な状況で危険な仕事をさせられたと主張するが、炭鉱の仕事は誰にとっても過酷であり、危険である。だからこそ見返りとして、多額な賃金が提供されたのだ。

 私の父は島で石炭を掘っていた一人である。戦時中は朝鮮半島出身者も一緒に働いていた。リーダーの指示の下、グループ単位で石炭を掘り進めるので、結束が乱れると様々な事故が起こり得るし、他のグループを巻き込む大事故にもつながりかねない。

 仕事が終わると皆で集まり今日の反省と労い、また明日に備えて結束を強める酒盛りがあった。朝鮮半島出身者も分け隔てなく、同じ仲間として一緒に酒を酌みかわしたと聞いている。誰もが仕事から無事に帰ってくることを祈った。