左から渋沢栄一、西郷隆盛

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(1)「渋沢栄一①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64521
渋沢栄一と時代を生きた人々(2)「渋沢栄一②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64524

一橋家仕官と薩摩藩との関係

 元治元年(1864)2月、渋沢栄一は尊王志士から一橋家の家臣に、つまり農民から武士への身分上昇を遂げ、政務に励み始めた。一橋家の京都屋敷は、初め東本願寺の内に置かれていたが、ちょうどこのころに小浜藩京都藩邸に移設され、渋沢と渋沢喜作は三条小橋の宿から通勤をしていた。

 渋沢を推挙した平岡円四郎は、渋沢の政治力に目を付けており、その能力を非常に高く評価していた。そのため、一橋家に仕官した当初から、渋沢は御用談所に勤務し、一橋慶喜のために探索・周旋活動を行う非常に重要な政治的ポジションを与えられた。渋沢は常に朝廷・幕府・諸藩の関係者と接触を持ち、機密情報にも精通するなど大いに面目を施した。

 そんな中、重大な任務が課せられた。平岡の密命を受けて大坂に下り、2月25日から4月7日までの間、薩摩藩士の摂海防禦御台場築造御用掛・折田要蔵の門下生となり、スパイ活動に従事したのだ。

 折田は兵学者として高名を博しており、この時期には幕府から摂海(大坂湾)での砲台造営を依頼されていた。慶喜は禁裏御守衛総督摂海防禦指揮に任命(3月25日)されており、そもそも折田とは連携せざるを得ない関係にあったが、実のところ、このころから抗幕姿勢を憚らない薩摩藩に属する折田の動向は、監視すべき対象であったことは間違いない。

 折田入門の経緯について、渋沢は「何でも幕府の失政を機会にして、天下に事を起さんとするものは、長か薩かの二藩であると思った、併し是等の事は直接に度々君公へ言上することも出来ないから、平岡円四郎へ忠告して、薩藩の挙動に注目せねばならぬ、之を知らむければ京都を警衛することは出来ませぬと申入れた」(雨夜譚)と述懐している。

 つまり、渋沢は薩長両藩への警戒心から、その大役を自ら平岡に買って出ていたのだ。渋沢の大胆さと行動力には舌を巻く思いである。

 その間、渋沢は折田を通じて、薩摩藩のキーパーソンの面々、例えば奈良原繁・川村純義・三島通庸・海江田信義・内田政風・高崎五六らと懇意となっており、渋沢の情報は非常に貴重なものであった。

 なお、沖永良部島での流刑を終えたばかりで、いきなり中央政局に復帰を果たし、渋沢と同様に探索・周旋活動を行っていた西郷隆盛とも、渋沢はこの時期に会っている。渋沢は禁門の変に向けた慌ただしい政治状況の下で、できる限り他藩の周旋担当者と接触を繰り返しており、西郷もその中の重要な1人であったのだ。