上杉謙信(写真:アフロ)

戦国時代に生きた武将を思い浮かべたとき、関東の武将の名前を言える人は多くない。その関東に目を向けると、室町幕府の見え方が大きく変わる。『13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。』など、日本史をわかりやすく伝える本で人気を博すお笑いコンビ「ブロードキャスト!!」の房野史典氏と、関東の戦国武将の姿から上杉謙信の行動を紐解いた一冊、『謙信越山』を上梓した歴史家・乃至政彦氏の対談、第2回。(全3回)(JBpress)

研究の差が激しい東国の武将

――房野さんが『謙信越山』に感銘を受けたという話は前回うかがわせていただきましたが、登場した関東の武将で気になった存在を挙げるとすればだれですか?

房野 これはもう里見義堯ですよ。

乃至 里見義堯のことは以前からご存知でしたか?

房野 全然知らなかったんですが、めちゃくちゃ魅力的だと思いました。乃至先生はこの本(『謙信越山』)を書かれていて好きになった武将っていますか?

乃至 最後まで印象に残っているのは小田氏治と、房野さんと同じく里見義堯です。

房野 やっぱりそうですよね! これまで関東の武将では北条氏が好きだったんですが、『謙信越山』を読んで里見義堯も好きになりました。

小田氏治(出典:Wikipedia

――以前、乃至先生は里見氏について書かれた研究本が少ないとおっしゃっていましたが、その状況は変わっていないんでしょうか?

乃至 里見氏を書いた小説とかはあるんですが、研究本となるととても少ないんです。

房野 だから、僕のような一般の歴史好きのところまで、里見氏の情報がおりてこないんですね。ちなみに、残っている史料の豊富さでいうと、関東の武将の場合、北条氏や上杉謙信、武田信玄はそろっていると思うんですが、その次は誰になるんですか?

乃至 じつは今の時点で手にとりやすい史料がそろっているのは、意外にも里見氏なんですよね。

房野 そうなんですか!

乃至 『戦国遺文』という戦国時代の古文書を集めた史料集が東京堂出版から発行されていますが、このなかに里見氏関連の史料を収録した『房総編』があるからなんです。ただ、これを使って里見義堯について書かれた研究本となるとほとんどありません。関東はかなり研究が進んでいる部分と、そうでない部分がちぐはぐなのが現状なんです。

――ほかにも『謙信越山』を読んで印象に残った部分はありますか?

房野 謙信と近衛前久、それに古河公方の宿老の簗田晴助【※1】の考えは、関東に静ひつをもたらすという点で、途中まで一致しているじゃないですか。

※1 簗田晴助 『(古河)公方の側近である「宿老」の簗田晴助も相応の権勢を誇っていた。晴助は、同国の関宿城を拠点としていた。晴助は北条氏康をライバルと見て、闘争心に燃えていた。向こうは晴助をそう見ていないかもしれないが、氏康をこのままにしておくと、簗田一族は単なる一領主に転落させられてしまう。『謙信越山』第2節 簗田晴助という男(前編)より

乃至 そうですね。

房野 ところが、いざ関東を平定すると、鎌倉に公方が住む従来の体制を復興させようとする謙信たちに対して、簗田晴助は自分の甥の足利藤氏【※2】を公方にしたいから、古河公方体制を維持したいってなる。

みんなで何かをやろうとすると、途中から意見が割れていくのは、今でもよくあることだよなって。

※2 足利藤氏 4代古河公方・足利晴氏の長男。母は簗田晴助の姉。次の古河公方を約束されていたが、父晴氏が後添えの正室として迎えた北条氏康の妹との間に生まれた義氏に家督を奪われた。

乃至 大事業になればなるほど、人の思惑がからんで、あっけなく失敗するってことはよくありますからね。

房野 そんなささいなことから崩れるのか! みたいなことって、現実でもよくありますよね。謙信の場合、成田長泰【※3】とのちょっとしたいざこざから連合軍が崩壊して、越後へ帰国せざるを得なくなるわけで。

乃至 『謙信越山』でもとり上げた、成田長泰打擲事件ですよね。

※3 成田長泰『武蔵の忍というところに、成田長泰という城主がいた。(中略)長泰は関東越山を開始した政虎のもとへ急ぎ駆けつけ、いち早く味方になった有力領主だ。それがなぜか同年中、関係が急に悪化してしまった。その原因はある有名な事件にある。成田長泰打擲事件だ。『謙信越山』第16節 上杉政虎と成田長泰の衝突より』