【阪神・淡路大震災】火災で焼け落ちた商店街のアーケード(写真:橋本 昇)
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(フォトグラファー:橋本 昇)

 この数日、震災の記憶をたどっていた。

 阪神大震災、中越地震、東日本大震災。

「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉があるが、忘れてはいなくても、地震は突然私たちを襲う。かといって、いつ起こるかわからない地震に毎日怯えて暮らすわけにはいかない。

「今日の夕飯は何にしようか」、「明日の仕事の予定は・・・」、あるいは半年先の家族のイベントのこと等々に思いを巡らしつつ、私達の日常は未来とともに回っている。

 大震災は犠牲者一人ひとりのその未来を破壊した。震災の記憶は「生きる」ということの不確かさ、「明日」という日の不確実性を突きつけてくる。

 ふと、窓から外を眺めた。今日という一日が穏やかに暮れようとしていた。

1995.1.17 05:46「阪神・淡路大震災」

 東名高速から名阪道に入り神戸を目指した。

 その日、1995年1月17日の早朝、阪神方面で大地震が発生した。車のラジオから絶え間なく流れてくるニュース。まだ被害の全容はわからない。だが、東京を出てくる時にテレビに映っていた映像から、大変な事態になっていることは想像された。壊れた駅舎や傾いて止まった電車、もの凄い勢いで燃え拡がる火災。テレビの映像は信じられないような光景を伝えていた。

 それにしても神戸とは・・・。

 当時、そろそろ大地震が起きると言われていたのは東京だった。関東大震災から70年、東京に住む人間はグラッと来るたびに“ついに来たか!”と思ったものだ。だからといって何の準備が出来ていたわけではないが、常に恐れという心の備えだけはあったように思う。

 後に聞いた話だが、あの時神戸に滞在していた知人は「ここがこんなに揺れたのだから、東京の家族は生きていないだろう」と、咄嗟に考えたらしい。

 それ程、阪神地域の人たちにとっては思いもよらない事だった。