文=中井 治郎

清水寺 写真:PIXTA

常に国内外の観光客が溢れかえっていた京都。日本随一の観光都市も新型コロナウィルスの影響を免れず、未曾有の危機にあります。先日『観光は滅びない 99.9%減からの復活が京都からはじまる』を出版、京都在住の社会学者・中井治郎さんがそんな京都の現状を踏まえ、これからの「京都らしさ」、「新しい観光」スタイルを展開。長く住んでいるからこそ知りえる京都のリアルな魅力にも迫ります。ご期待ください。

不思議の街に閉じ込められた社会学者

 新型コロナ・ウイルスの猛威によって人間の様々な営みが影響を受けることになったが、なによりも徹底的に凍結させられたのは「移動」である。

 加速するグローバリゼーションによって海外旅行が高嶺の花だった時代は過去のものとなり、2018年には世界の国際観光客数が14億人を超えた。多くの人々が国境を越え、海を越えて好きな場所に出かけ、人類はこれまでの歴史で誰も見たことがないほど移動の自由を謳歌していた。

 しかし、それも2020年の春までのことである。あの春以降、未知のウイルスのパンデミックにより世界中の国境は閉ざされ、都市は次々と封鎖され、人々は海外旅行どころか自分の街から出ることすらままならなくなってしまった。

 世界中の人々が自分の街に閉じ込められることになったわけだが、僕が閉じ込められることになった街は京都だった。いうまでもなく日本の古都であり、毎年人口の数十倍もの観光客を受け入れる世界的な観光都市である。小さな町家が肩を寄せ合う狭い盆地に、広大な寺社や御所をはじめ10数件もの世界遺産を抱える街。精緻な箱庭のようであり、また、果ての見えない小宇宙のような不思議な街である。

 一方で僕はといえば、普段は観光や文化遺産に関する研究をしている社会学者だ。ただ、観光や旅行についての研究をしているといっても、そもそもは単なる旅行ジャンキーなので、東南アジアの安宿の天井あたりに淀む気だるい空気を思いながら京都の片隅で息をしているだけの人間である。

 大阪出身だが京都に本部を置く大学に進学して以来(僕が主に通ったのは隣市のキャンパスであったが)、とくに功成り名遂げる気配もなく、何となくずるずるとこの奇妙な街に甘やかされて居残ってしまったくちだ。今となっては逃げ遅れてしまったというべきなのかもしれないが。

 そして、あの春の日、誰も予想しなかった災禍によってこの不思議な街に閉じ込められてしまった。いつも遠くばかりを思ってため息をついていた僕も、世界中の同じ境遇にある人々と同じように、あらためて自分が暮らす街と向き合うことになったのである。

 

コロナ禍で京都を取り戻す・・・?

 さて、コロナ禍直前の京都はどうであったかというと、これがすこし厄介な状況にあったのである。まさに観光都市としてピークを迎えていたのだが、言葉を変えるなら、世界的な京都ブームの波に乗って押し寄せたインバウンドの怒涛が古都の景色を塗り変えようとしていたともいえる。

 京都の観光産業はバブルともいわれる活況を呈していたが、なにせ小さな街であり、また21世紀の日本とは思えないほど伝統的な暮らしと文化の息づいている特殊で繊細な「ややこしい」街である。

 たしかに世界中から集まった大量の観光客によってもたらされた利益は大きなものであったが、その代償は決して安いものではなかった。地価高騰による住民流出や交通機関の麻痺をはじめ、カメラをかざした観光客が花街の芸舞妓を追い回す「舞妓パパラッチ」など、人々の暮らしや長年受け継いできた文化へのダメージは深刻なものとなり、いわゆる観光公害やオーバーツーリズムとして大きく問題とされることになったのだ。

写真=GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 観光都市として世界に名を馳せる一方、たとえば、選挙ともなれば各候補者が街角で「私ならばいかに観光客を抑え込めるか」と声を枯らしてアピールする殺伐とした光景があったことも事実である。

「このままでいいはずがない」・・・人々のそんな憤りと危機感が頂点に達した、まさにその瞬間にやってきたのがコロナ禍だったのである。間断なく京都に押し寄せて街を埋め尽くしていた観光客の波がぴたりと止まった。

 人影のない嵐山、人影のない東山、人影のない祇園。これまで誰も見たことがなかった静寂の京都が目の前に現れた。そして魔法にかけられたように時が止まった街で、人々はどのように観光と付き合っていくべきなのかという問いとあらためて向き合うことになったのである。

 一度目の緊急事態宣言が解除された2020年7月に京都市観光協会(DMO KYOTO)はウィズ・コロナ時代への適応を目指したロードマップを発表、そして11月には京都市と共同で「京都観光基準(京都観光モラル)」を策定する。何よりも注目すべきは、これらは単にコロナ禍で未曽有の危機に瀕した京都観光の復活を企図するものではなかったことだ。この危機による観光の空白を契機として京都観光を「やり直す」ことを宣言するものであったのである。

 世界に京都ブームを巻き起こし活況を呈していた以前の京都観光の状況を外から見ていた人々の目には不可解に映るかもしれない。なぜ、コロナ禍以前の京都観光と決別する必要があるのかと考えた人も少なくないだろう。

 しかし京都観光モラルでは「京都が京都であり続けるために」と謳われている。この宣言は、たとえ数年でコロナ禍による観光危機が去ったとしても、これまでのような京都観光が続くのであれば京都が京都でなくなってしまうという、コロナ禍よりももっと根本的な部分で京都が瀕していた危機に対峙する決意表明のようなものである。

 

「京都らしさ」を描きなおす

 目の前にはコロナ禍による未曽有の観光危機。しかし、これまでの道に帰ろうと後ろに退いてもそこに京都という街を守ることのできる未来がないことは、この街に暮らす人間なら誰しもが気づいていたことである。

 日本から、そして今や世界から、変わらない伝統と格式を守り続ける街であることを求められる一方で、この古都を取り巻く時代状況は変わり続けている。インバウンドの急増もコロナ禍も、これまで誰も経験したことのない新しい危機なのだ。伝統も格式も旧態依然のやり方で守っていくことはできないことは、長い歴史の中で幾度も「新しい危機」を経験してきたこの街は痛いほどよく知っている。変わらないものを守るためには変わり続けないといけない。

渡月橋 写真=PIXTA

 とはいえ、何を変えて、何を守らなくてはいけないのだろうか。観光のあり方を考えるとは、端的に言うならば、誰に・何を・どのように見せるかということである。それはつまり、「京都らしさとは何か」という問いである。

 いまこの街は、観光のあり方を問い直すことを通して「京都らしさ」の再考を迫られているのだ。いまこの街の人々はその核心となる「京都らしさ」を自分たちの手に取り戻すための模索を始めている。そして、それは自分にとってこの街がどのような意味を持つ場所なのかを手探りで確かめ、選び取る作業となるだろう。

 観光都市を襲った未曽有の危機と「京都らしさ」の歴史的転換点。そこに僕がうっかり居合わせてしまったのも何かの縁なのかもしれない。これからこの不思議な街で何が起こり、何が変わり、そして何が変わらずに残るのだろうか。そして僕はこの街で暮らすことにどのような理由を見つけるだろうか。

 若い僧侶が庭を掃き清める冬の朝から紫煙の燻る純喫茶の暗がりまで、訪れる人それぞれによって点描のように見出されてきたこの街の景色を書きとめながら、「京都らしさ」の来し方と行く末を考えていこう。閉じ込められた僕たちにはどうせほかにすることもないのだ。たまにはじっくりこの街の言い分を聞いてやるのも悪くないと思う。