(英エコノミスト誌 2021年1月16日号)

プラトンの『国家』も、部分的には衆愚政治の害悪についての考察だった。
自由主義者たちは暴徒について考えるのをサボるようになった。
例えば中東などで、自分が支持しない政治体制を暴徒が脅かす時には「ピープル・パワー」などと形容して持ち上げる一方、例えばオレゴン州ポートランドの暴動などで見られたような、歴史的に見てまっとうな側にいると見なした人々が過剰な抗議行動に及んだ場合には、見て見ぬふりをする。
2020年8月には主流派の出版社パブリック・アフェアーズから、ヴィッキー・オスターウェイル著『In Defence of Looting: A Riotous History of Uncivil Action(邦訳未刊、「略奪擁護論:野蛮な行動の奔放な歴史」』などという書籍まで刊行された。
1月6日にドナルド・トランプ大統領の支持者が暴徒と化して米国の連邦議会議事堂に侵入した事件は、火遊びの危険を思い出させる出来事だった。
暴徒は「行儀の良い」方の政治勢力に限られた現象だと考えるのは甘い。
左派に乱暴な輩がいれば、右派にも自ずとそういう輩が出てくる。暴徒が節度を守るなどと考えるのはなお甘い。暴走するのが彼らの本質だ。
プラトンが出した答えは「哲人王」
政治哲学者は2000年以上前からこの点について論じている。
近代以前の理論家たちは飽きることなく、スキがあれば「多頭の怪物」が姿を現し、既存の秩序を踏みにじると警告していた。
自由主義の思想家でさえ、デモクラシー(民主主義)はモボクラシー(衆愚政治)を生みかねないと心配し、人民の意思は憲法上の複雑な概念(個人の権利、およびチェック・アンド・バランス)と市民社会の政治文化との組み合わせによって抑制する必要があると説いた。
特に頭の切れる人たちは、そうした抑制が崩れると民主主義が衆愚政治に変質する恐れがあると付け加えた。
最初に書かれた政治哲学の偉大な著作であるプラトンの『国家』は、一つには、衆愚政治の害悪を考察していた。
プラトンは民主政を、呼び名が異なる衆愚政治に等しいと見なしていた。少なくとも初めのうちは暴力が使われないかもしれないが、衆愚政治と同じく人々の衝動を制御する仕組みが欠けている、と考えたのだ。
また、民主政の社会の市民については、市場(いちば)で「様々な色が施された着物」を見つけて購入するものの、ほんの2、3度袖を通しただけで破れたことに気づく買い物客になぞらえた。
そして民主政の社会には限界を試す傾向がもともと備わっていると論じた。
プラトンはまた、貧しき者が富める者から略奪したり浪費が破産を招いたりするのと同じように、民主政は無秩序に堕することが避けられないとも論じた。
無秩序はやがて僭主政に至る。
僭主は民衆が持つ最悪の本能を刺激し、共感を得ることができる。それは、僭主本人が自分の最悪の本能に支配されているからにほかならない。
僭主とは、いわば、1人の人間の形をした民衆なのだ。
プラトンの考えでは、衆愚政治の代わりになり得るものは守護者の階級による支配だけだった。すなわち、自分の感情を制御したり本能よりも知恵を優先させたりする訓練を幼い頃から受けてきた「哲人王」による支配である。