久保田伸一さんは昨年、2019年3月25日付で株式会社ニューバランスジャパンの代表取締役社長に就任した。外資企業である同社としては初のプロパー社長だ。アメリカ合衆国・マサチューセッツ州ボストンに本社を置くニューバランス・アスレチック・インコーポレイテッドは、1906年にアーチサポートインソールや扁平足などを治す矯正靴メーカーとしてビジネスをスタート。現在はランニングをはじめライフスタイル、テニス、ベースボール、フットボール、ゴルフのためのフットウェアとアパレルを展開する。久保田さんが思い描く「アスレチックブランド」の在り方とは──

文=大住憲生 写真=山下亮一

MY FIRST NEW BALANCE

「1981年、中学2年生のときに父に買ってもらった『320』が、はじめてのニューバランスです。アメリカの専門誌『RUNNER’S WORLD』で賞をたくさん獲ったシューズでした。ニューバランスが世間に認知される、有名になるきっかけをつくったシューズでもありました」

「中学校入学を期に履物が変わります。ズックではなくなる。陸上のひとはランニングシューズになり、バスケ部のひとはバスケットボールシューズになる。それが面白くてスポーツシューズ全般に興味津々でした。いろいろ履きたいシューズはありましたが、製靴業界にいた父の関係で『320』になりました」

 

 久保田さんの父上の勤務先は月星化成(現 株式会社ムーンスター)。当時、同社はニューバランスとブランドライセンス契約を締結しており、生産だけでなく素材の供給も請け負うなど親密な関係にあった。

「ぺったんこのズックからスポーツシューズになって、ぜんぜん違うなぁ、とは思ったものの『320』にそこまでの感動はありませんでした。そのあと、2足目が『620』です。軽量化された新しいコンセプトのシューズ。これには、ものすごく感動しました。とにかく軽いしフィットするしクッションはいいし。で、それをしばらく履いていて、最初の『320』に戻ってみると。あ、これはこれで味があるなと感じ、そのときに『320』が好きになりました。ただ、その後すぐに廃番になってしまったんです。もう一度、履いてみたいシューズです」

NEW BALANCE 327|1970年代に人気だった「Super Comp」「Trail 355」「320」がデザインインスピレーション。それもあって、久保田さんのマイファーストニューバランスの「320」にいちばん近い履き味がある。つまりニューバランスらしい安定感があり、なつかしさがある。とはいえモダンにリ・デザインされている。国内では好調なセールス、世界的に見るとかなり売れている新作のひとつ 価格は1万900円(税別)

ふたりの父

「ぼくはハマりやすいというか、凝り性なのでドンドン突っ込んでゆくタイプ。とにかくシューズが面白くてしかたがない。いろんなメーカーのいろんな種類のいろんな情報を集めはじめます。ところが今ほど情報はない。『月刊ランナーズ』という雑誌が発刊されて4、5年たったくらいです。アメリカの『RUNNER’S WORLD』誌では、毎年9月にランニングシューズのランキングが掲載されるのですが、書店ではなく郊外にある大型スポーツ用品店へ電車に乗って買いに行くしかない、そういう時代でした」

「あらゆるメーカーに「カタログ希望」の手紙を書きました。ありがたいことにみなさん送ってくださる。時には会社へ電話をして来訪すると、PRの方にカタログがたくさんある部屋へ案内され『好きなものを持っていっていいよ』といってくださる。うれしかったですね。おかげでニューバランスを含め、カタログは全ブランドの全種をそろえることができました。ただ、ニューバランスのカタログには4モデルくらいしかない。『RUNNER’S WORLD』には新作が載っているというのに。これはアメリカのカタログを入手するしかない。で、住所を突き止めて手紙を書きました、和英辞典を繰りながら。2通くらい出しましたが返信はありませんでしたね(笑)」

 

 そんなおり父上から「アメリカからニューバランスのひとが来日し、そのひとと商談をする」と聞いた久保田さんは、また手紙を書く。そして手わたしてくれるよう懇願。そのニューバランスのひとは、開発やデザイン、企画の責任者エド・ノートンさんだった。

「すぐに彼との文通がはじまりました。もちろんカタログは送ってくれるし、ときどきTシャツなどもプレゼントしてくれる。ぼくが入社するまでやりとりは継続しました。そのなかで印象に残っているのは、いまから25年くらい前、ランニングシューズ全盛のときに「近い将来、アスレチックシューズは若者や一般のひとがふつうに履くようになる」という予言です」

「シューズにかんすることだけでなく、ちょっとした悩みや進路の相談などにも親身になって応えてくれるやさしいひとです。入社してからもボストン出張時に会ったりしましたし、ご自宅へも招いてくれました。さすがに最近は会えていませんが。ある意味、父親のように育ててもらいました。恩人です」

「EVAというスポンジ素材があります。それを圧縮、あるいはウレタンでカバーしたりするといった開発を当時は日本でしていたんですね、日本が生産国だったので。父はそのパーチェシングしていました。日本で買い付けをしてアメリカへ輸出する仕事です。ニューバランスの新製品が発売されるたびに、いろいろとレクチャーしてくれました」

 

ふたりの父の薫陶よろしきを得て、高校生になった久保田さんは自分でデザインしたシューズをニューバランスでつくることを夢想する。そして、関西外語大学外国語学部英米語学科で英語力に磨きをかけ、卒業の1991年、ニューバランスジャパンに入社。企画課に配属され、商品企画およびマーケティングに従事。18年後には、執行役員マーケティング本部長に就任。2010年、アジアパシフィックのプロダクトマーケティング部門ジェネラルマネージャー、2014年に、アメリカ本社のグローバルライフスタイル部門ジェネラルマネージャー、2016年には、アメリカ本社のライフスタイル&エンデュアリングパーパス部門ヴァイスプレジデントを歴任し、2019年より現職。だれよりもシューズに精通しているうえにライフスタイル部門を拡大、拡充させた手腕が評価されている。

NEW BALANCE 990v5|ニューバランスのグレーは1978年に「620」ではじまった。オーナーが「これからはみんなが街中を走りだす。だから街に溶け込むアスファルトの色、グレーだ」と宣言。しかし「ランニングシューズとしては地味すぎる」と社内は猛反対。それを押し切り発売したら記録的なセールスに。1982年にリリースされた「990」は、価格が100ドルと当時ではかなりの高値。やはり社内では反対意見が多かった。が、こちらも売れた。結果、グレーの「990」はニューバランスのアイコンになる。この「990v5」は、フラッグシップモデル「990シリーズ」の最新作で、ブランドを象徴する最高傑作。アメリカの自社工場製で価格は2万8000円(税別)。ちなみに自社工場はアメリカに5つ、イギリスにひとつ 

つま先を踏め

「代表取締役社長就任前はアメリカのチームにいましたから外側から見ていました。もちろん、その前は日本でずっと仕事をしていましたので、なんとなくの雰囲気はわかっていたのですが。就任直後は、具体的にどういうことをしようとか、何を変えなきゃいけないかとかは、あまり強くバイヤスをもたないようにしようと考えていました。現状を見ないことには分かりませんから。すべての管理職とのワン・オン・ワン・ミーティングに3か月くらいかけたのち施策や政策を決定するつもりでした。が、結局は半年以上かかってしまいました。10月にすべてのミーティングを終え年末に施策を発表し、それにあわせて組織変更をしたり、2020年のための準備を整えたりしたわけです。もちろん、その先のこともプランニングしました」

 

 ミーティングで顕在化した問題点は改善すればいい。が、なによりの問題は会社が急成長し、縦割りという弊害が生まれていたことだった、と久保田さんは回想する。その弊害を解消するイディオムがある? 

「英語の“Don’t step on someone’s toes.”(誰かのつま先を踏むな)には『他者をイラつかせるな』あるいは『他者の領分を侵すな』という意味があります。もっともな話です。しかし、ぼくは”Step on someone’s toes.”(誰かのつま先を踏め)と話ました。そうしないと、ここまでが自分の仕事と線を引くわけですし、日本人のゆかしさかもしれませんが、境界線のちょっと手前で線を引く。遠慮してギリギリにもしない。しかし、そうすることで境界線に案外と大きな溝ができていることがあるわけです。ですから、つま先を踏めといいました。言葉が意識を変えると信じて」

「約7か月間、毎日が長時間のミーティングでしたから体力的にしんどかったですね。こういう役職に就くとしても、キャリアの終盤にと考えていました。最後に後進の育成をして、つぎへバトンをわたす準備をして辞めるのもいいな、と思っていたんです。ですから予定よりはずいぶん早かった。しかし、結果としてはこれでよかったのかなと。60歳を前にしたあたりで去年とおなじ仕事をするとなると、そうとうハードだと思いますね」

TOKYO DESIGN STUDIO New Balance|インタビューは久保田さんが立ち上げた、サブブランドでありカテゴリでもある”TOKYO DESIGN STUDIO”をはじめとするライフスタイルカテゴリの情報発信拠点として、ことし7月17日にオープンした”T-HOUSE”で収録。シューズやアパレルだけでなく、NAKAMURAのオーガニック抹茶スティックやオープン時には高田志保さんのデザインによる陶器なども販売。久保田さんは「こちらは感度の高いひとたちのために、ニューバランスというブランドの目を通したカッコよさ、品位を伝える場所です。これまでご縁がなかったひとたちとのタッチポイントになれば、とも考えています。われわれが展開するランニング、テニス、ベースボール、フットボールには、それぞれ研究所のようなものがあり、専門のチームがアドバンスドコンセプトをつくっているのですが、ぼくが統括していたライフスタイルにはなかったのです」。同店をそのアドバンスドコンセプトをつくりつづける装置にする考えだ

STYLE OF LIFE

「Covid-19により昨年に立てた戦略は完全に壊れました。キイアカウントの方とのつながりを確かなものにし、しっかりとビジネスを太くして会社の土台を大きくしようと考えていましたから。ところがお店は閉まっちゃうし……。他社同様に、Eコマースは好調です。ですが、いまは耐える時なので守るところは守るし、必要以上に攻めたりはしない、といったところですね。とはいえ、いつまでも我慢するつもりはありません。ちょっとチープな表現ですがニューノーマルみたいなものを含めたうえで、来年からはしっかりと攻めていきたいと考えています。ですからそのためにいまは体力を温存する。ムダな脂肪は落として、必要な筋肉をつけて鍛えてゆく。展望としてはそういうところです。まだまだ、われわれの伸びる余地はあると思います。そういった意味でより大きなゴールに到達するために、ここ1、2年はとても大事だと考えています」

 

 同社のミッションは、アスリートが誇りを持って身に付け、社員が誇りを持って世に送り出し、コミュニティが誇りを持って受け入れることのできるグローバルブランドを築くこと。歩くため、走るために特化したブランドからアスレチックブランドへ歩を進める。2015年にはサッカー用品市場に参入し、日本・J1のサガン鳥栖などとサプライヤー契約。そして2021年からはFC東京とのサプライヤー契約も発表された。またテニスでは、2020年ウエスタン・アンド・サザン・オープンで惜しくも決勝で敗れたミロシュ・ラオニッチ、2020年WTAツアーシングルスで優勝したヘザー・ワトソンや、2018年全仏オープンで史上2番目の若さで優勝したココ・ガウフと契約。バスケットボールでは、クリッパーズのカワイ・レナード選手。ベースボール契約選手はMLBサンフランシスコ・ジャイアンツ所属のエバン・ロンゴリアらがいる。久保田さんはライフスタイルをビジネスとして確立させ、ライフスタイルもアスレチックブランドの側面であると認識させた。

「商品特性が、そのターゲットを照らし出しているわけですが、ターゲティングは実年齢より精神年齢になっています。たとえばいまは、20代も60代もおしゃれなひとは似ています。つまり、いろんな垣根がなくなってきている。ですからライフスタイルとカテゴライズドすることにより、いままでリーチできなかったひとへも提案しだいでリーチできるのではないかと考えています」

 

 精神科医、心理学者、社会理論家のアルフレッド・アドラーは「ライフスタイルとは個人自身の創造力の産物、また、幼児期の状況に根ざしているもの」とし、「スタイル・オブ・ライフは個人の考え方、感情、行動の統一に反映されているもの」と説く。

「スポーツメーカーが提案するライフスタイルというカテゴリは、カジュアル部門でしかないばあいが多々あります。が、ぼくが目指しているのは、スタイル・オブ・ライフです。弊社のシューズがハイスペックだからこそ、それを履くひとのライフのどんな側面を切り取ったとしてもサポートすることができる。プロダクツにニューバランス的なスタイルを加味することで可能になると考えています」

「アスレチックブランドとしてアスリートの気力を、あるいは結果をサポートするブランドでありたいですね。ぼくは『620』を履いたときにアタマのなかでベルが鳴るくらいにショックがありました。それくらいの感動やよろこびをポジティブな感情を、お客さまに訴えるブランドでありたいと思います」

「ラッキーなことに好きなことを仕事にしてきましたし、いまもしています。ビジネスマンというよりアーティストやアスリートに近いのかもしれませんね」

T-HOUSE New Balance|1階はギャラリーとストアのスペースで、2階は”TOKYO DESIGN STUDIO”のワークスペースになっている鉄筋の白い箱のような建物は、建築家の長坂常さんが率いるスキーマ建築計画の設計。そのなかには、埼玉県川越から築122年の蔵を移築、つまり解体して組み直してある。見るからにして日本的ではないけれど、見事に日本的なスタイルをもったエクステリアとインテリアだ
@newbalance_t_house