『長篠合戦図屏風』(部分)(Wikipediaより)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

急速に普及した新兵器・鉄砲

 11月6日掲載の「意外に知らない、戦国時代の主力兵器」で書いたように、戦国時代の主力兵器は槍であった。とはいえ、戦国時代の半ばに日本に伝来した鉄砲(火縄銃)が、急速にひろまったのも事実である。

 1552年(天文21)に、若き日の織田信長が斎藤道三と会見した際、弓・鉄砲あわせて500丁を率いていたことが、『信長公記』という記録に書いてある。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場した、有名なエピソードだ。

 また、甲斐の僧が書き残した『勝山記』という記録によれば、1555年(天文24)に武田信玄は信濃の旭山城に鉄砲300丁を配備したという。当時の旭山城は、長尾景虎(上杉謙信)とのせめぎ合いの焦点になっていたから、武田軍が最新兵器を最前線に投入する、というのは大いにありうる話だ。

旭山城全景。

 種子島に鉄砲が伝来したのは1543年(天文12)というから、わずか10年ほどの間に、鉄砲は戦国大名の間に数百丁単位で流通していたことになる。ではなぜ、戦国大名たちは、この新兵器に飛びついたのだろう? 

 伝統的な飛び道具である弓矢とくらべた場合の、鉄砲のメリットについて考えてみよう。

 まず、射程や貫通力という問題は、意外に難しい。実験の事例もないわけではないが、火薬の成分や使う人の技量など、条件を当時とまったく同じにはできないからだ。何より、実験場での射撃と、実戦での射撃では、事情がまったく異なる。おそらく、実戦で命中が期待できる距離となると、弓矢も鉄砲も決定的な差はなかっただろう。

 ただし、貫通力となると話が別だ。というのも、そもそも日本の鎧は、弓矢や刀剣での攻撃を防ぐようにできているからだ。矢が鎧に刺さっても簡単には致命傷にならないが、鉄砲は鎧としては想定外の攻撃なので、弾が貫通してしまう。

 また、中世にひろく用いられていた木製の楯も、矢なら防ぐことができるが、鉄砲の弾は貫通してしまう。大きな音を立て、ささくれ立った木っ端を飛び散らせながら楯を貫通する銃弾は、背後にいる者には恐怖だったろう。城門や建物に対する破壊力となると、明らかに鉄砲の方が威力がある。

 ただし、当時の鉄砲には、弾込めに時間がかかるという弱点があった。筒先から火薬と弾丸を別々に入れ、さらに火皿という部分に、点火薬を別にセットしなければならないからだ。火縄を使うため、雨や強風に弱い、という不安定な性質ももっている。

 対して弓矢は、速射性にすぐれている。そこで戦国時代の合戦では「防ぎ矢」といって、弓矢で鉄砲隊を援護する方法がとられた。鉄砲隊が弾込めをしている間に、敵が間合いを詰めて来ないようにするため、文字通り「矢継ぎ早」に矢を射ることで「弾幕」を張るのである。

毎年5月5日、愛知県新城市にて開催される「長篠合戦のぼりまつり」。長篠の戦いでたおれた両軍の武士の霊を慰めるため、数千本ののぼりを献植。鎧兜に身を固めた鉄砲隊による火縄銃の演武も見られる。

 また弓矢は、遠くから一斉射撃を行って、放物線弾道を描くように矢の雨を降らせて、面を制圧するような使い方ができる。火矢や矢文を射るという、鉄砲にはマネのできない芸当もできた。

 このように、飛び道具としての鉄砲と弓矢には、それぞれに長所と短所があったのだ。しかし、こうした比較を無意味にするような画期的なメリットが、鉄砲にはあったのだ。(後編に続く)

 

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