少子化対策にはいろいろあるが、「性」について一人ひとりが真剣に考えることも必要だ

 人間は性的存在であり、誰しもセックスに対して強い関心を抱いている。

 だが、性に関しては多くが謎に満ち、「性」そのものの正体は概して捉えにくく、依然、謎のままだ。

 そこで「性」について、漂流したその謎の新たな落ち着き場所を探すべく、独断と偏見を基に、下半身についての来し方、行く末について、また、現代、過去の「性」を巡る状況や「性」そのものについて、我が身に重ね合わせながら実感的に綴ってみたい。

 性欲は食欲、睡眠欲とならぶ本能である。だが、下半身には恍惚といった天国と、恥辱という地獄が肩を並べている。

 男も女も、こと下半身においては、互いに苦労を強いられ、ともすれば、それこそがやっかいな悩みやトラブルを生み出す。

 個人的な「性」の問題は、まさに自尊心と直結している。だが、この手の悩みは、他の事象と異なり、解決が容易でない場合が多い。

 どんなに富や名声、権力があったとしても、また、いずれもなくとも男性、裸一貫となれば同じ男。

 栄耀栄華を謳歌する者であっても陽物自体、また、その営みが陳腐であれば、女性に「取るに足らない男」との烙印を押されることもある。

 だが、たとえ下郎であったとしても男性自身が頑強堅固で抜群の機能性を兼ね備え、レディを夢心地にさせる才能と力量があるならば、憧れの美女さえも平伏す魔境の皇帝と崇められるのも夢ではない。

「下半身に人格はない」とはよくいうが、下半身には実は人格がある。

 たとえば淫行条例に触れると分かっていながらも女子高生をSNSで「お小遣いあげるよ」と誘い出したり、また、女房との夜の営みに日が空いたりしていたら「そろそろ女房を抱かないとまずいな」とか「1年に1回くらいは雄としての勢いをみせないと」といった心理が働くのは、人間性の一端を示すものであり、下半身の人格そのものといえる。