設楽原古戦場(愛知県新城市)。武田の騎馬軍団に対抗するために信長が考え出したとされる「馬防柵」は、設楽原をまもる会が中心となって再現された。

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(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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信長が狙っていた瞬間

 前田利家・佐々成政らが指揮する千挺の鉄砲隊は、織田軍の正面に配置されたものではなかった。織田信長は、徳川軍だけでは武田軍の猛攻をしのぎきれない、と判断して、徳川軍を援護する鉄砲隊を配置するよう指令した。だから、諸隊から抜き出した臨時編成の部隊だったのだ。

 一方、『信長公記』のつづきを読むと、武田軍は織田軍の正面にも攻撃を仕掛けてきたことがわかる。これに対して信長は、織田軍主力には陣地から出ないよう厳しく命じ、鉄砲を撃ちかけて武田軍を撃退した、と書いてある。

織田信長像(Wikipediaより)

 この状況を、勝頼の立場で考えてみよう。数は多いかもしれないが援軍である織田軍と、わざわざ正面からぶつかる必要はない。あなたが勝頼なら、どうするか? 

 僕なら、駆け引きの巧みな家臣たちの隊をいくつかふり向けて、織田軍を牽制させる。織田軍が総力をあげて徳川軍を援護しないように仕向ければよいのだ。いくつかの有力部隊で織田軍を牽制し、釘付けにしておくのが勝頼の戦術だった、と考えてよいだろう。

 この間、徳川軍は、織田軍鉄砲隊の援護射撃を受けながら、白兵戦につぐ白兵戦で何とか持ちこたえていた。そして、徳川軍が猛攻をしのぎきったことによって、武田軍は攻め疲れて手詰まりの状態に陥った。

 信長が狙っていたのは、この瞬間だった。陣地の中に温存していた織田軍の主力を、どっと繰り出して、武田軍を一気に押し崩したのである。局面は、たちまち追撃掃討戦へと展開し、武田軍の将兵たちは次々と討ち取られていった ・・・。

 鉄砲という新兵器が勝敗を分けた戦い、という固定観念を捨てて、あらためて経過を整理してみると、長篠の合戦は、一にも二にも信長の「作戦勝ち」だったことがわかる。鉄砲隊どころか、そもそも織田軍自体が戦場の主役ではなかったのだ。当然、鉄砲が戦いのゆくえを左右したわけでもない。長篠で勝敗を分けたのは、新兵器でも革命的な戦術でもなく、信長のあざとさだった。

 武田軍に対する防波堤として家康を使ってきた信長は、長篠城からのSOSの知らせを受けたとき、一息つかせていた織田軍の主力を、気前よく長篠戦線に投入することを決心して、ただちに実行に移した。

 美濃方面にも手当てをしておこう、などとは考えなかったのだ。そうして、折りよく空いていた手で、おいしいところをゴッソリ持っていった。それでも、絶体絶命のピンチを救ってもらった家康は、格上の同盟者に頭を下げるしかなかった。下請けのつらさである。この判断の速さと、思い切りのよさこそが、長篠合戦の真の勝敗分岐点であり、信長の本当の強さでもあった。

 なお、長篠の合戦と武田勝頼について詳しく知りたい方は、拙著『東国武将たちの戦国史』(河出書房新社2015年刊)をご参照いただけると、ありがたい。

 

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