ウランホトにある成吉思汗廟(チンギス・ハーン廟)
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(文+写真:船尾 修/写真家)

 これまでの連載では、大連、奉天(瀋陽)、新京(長春)、ハルビン、安東(丹東)といった都市に関連する近現代史を、現地に残存する建築物と絡めて解説してきた。満洲国という歴史のはざまに産み落とされた国家がどのように誕生し、日本を凌ぐような近代都市を建設しながらもやがて崩壊していったのはなぜなのか。

 そのひとつひとつの要因を検証していって初めて「満洲国とは何だったのか」という問いに対する回答のヒントが導き出せると思うが、これだけ筆を尽くしても満洲国というものの実像に迫ることは至難の業である、というのが私の正直な感想である。

 後世に生きる人は、現代において入手できる資料や公文書、書物などを読み解くことによって満洲国の実像に迫ろうとするが、やはりその時代に生きた人の具体的な証言なり回想がそこには必要不可欠になる。ところが戦後75年を経て、当時のことを明晰に証言できる人はもはや少数になってしまった。

 しかし現在の中国東北部には、満洲以前のロシア時代のものも含めてたくさんの往時の建築物が残されている。日本の約3倍もの面積を持っていた満洲。私はカメラと古地図を手に満洲という時代の残り香を探して歩きまわった。そして人間の営みを黙って見下ろしてきた建築物を通じて、満洲国というあまりにも短命な国家のおぼろげな輪郭だけでも描いてみたいと思った。

 今回はこれまでの連載で取り上げなかった建築物のうち、特色のあるものを中心にその背後に隠れている歴史と当時の情勢を軸に紹介してみたいと思う。私の狙いどおり、満洲というどこかつかみどころのない地域がもっと人々の実際の暮らしに直結した形で具体的かつ立体的に投影することができたらうれしい。

成吉思汗廟〔チンギス・ハーン廟〕(ウランホト)

 冒頭の写真は、ウランホトにある「成吉思汗廟」である。

 現在の内蒙古自治区ウランホト(烏蘭浩特)の街は、吉林省との省境近くに位置している。満洲国時代には「興安」と呼ばれていた。満洲国のスローガンのひとつ「五族協和」とは、満洲人、漢民族、蒙古(モンゴル)人、朝鮮人、そして日本人を指しているが、この興安付近には歴史的にモンゴル人が多く住んでいた。

内蒙古自治区・ウランホトの位置(Googleマップ)

 モンゴル人と満洲人はともに清朝時代からチベット仏教を信仰していた関係で友好関係にあった。そのため満洲国が建国された1932年(昭和7年)当初は皇帝・溥儀に忠誠を誓うという意味で、モンゴル人は満洲国には協力的な姿勢を取っていた。

 ところが徐々に民族自決の動きが出てきて、1939年(昭和14年)にはモンゴル王侯のデムチュクドンロブ(徳王)を主席とする蒙古聯合自治政府が成立する。満洲国政府は皇帝・溥儀が天照大神を国神として奉ってからは各地に建国神社を建立していったが、興安ではそうもいかなくなってきた。自治政府を打ち立てたモンゴル人にとってみれば、神社の建立は日本による文化的・精神的な侵略を意味するからである。

 このためモンゴル人たちを宣撫するためには彼らの自尊心を満たす建築物を建立する必要があった。モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーンを祀る「成吉思汗廟」の建設はこうして計画されることになった。設計と施工には満洲国建築局の日本人技師があたり、明治神宮外苑の「聖徳記念絵画館」とチベット仏教寺院をミックスさせたデザインの廟は、こうして終戦間近の1944年(昭和19年)に竣工したのである。聖徳記念絵画館というのは1926年(昭和元年)に故明治天皇の業績を絵画に描いて展示するためにつくられた建物である。

 この成吉思汗廟からほど近い場所で、終戦直前に日本人を震撼させた凄惨な事件が起きた。「葛根廟事件」である。8月14日、満洲国になだれ込んできたソ連軍は興安の街を空襲した。興安には約3000名の日本人が暮らしていた。

 在住日本人は集団で興安を脱出し、鉄道で新京方面へ避難するために葛根廟駅へ向かっていたところをソ連軍地上部隊の機銃掃射を受け、千数百名が死亡したのである。根こそぎ動員によって男はほとんど兵隊にとられていたため、避難するために歩いていたのはほとんどが老人と女、子どもであった。