文=青野賢一 イラストレーション=ソリマチアキラ

 現在公開中の映画『マイルス・デイヴィス クールの誕生』は、「ジャズの帝王」と称されるマイルス・デイヴィスの生い立ちから晩年までを、共演したミュージシャン、親族、関係者などに取材し、資料映像や写真も交えて描いたドキュメンタリーだ。マイルスの生きた1926年から1991年という期間において、いくつかの重要な年をピックアップし、それを軸にストーリーを組み立ててゆくという本作の構成は、時代とマイルスのかかわり合いをさりげなくも確実に伝えることに成功しているといえるだろう。

 

ミュージシャンとしてのスタート

 1926年、アメリカ・イリノイ州オールトン生まれのマイルスは、ジュリアード音楽院入学とともにニューヨークのジャズ・シーン──当然ながら夜のジャズ・クラブである──に入り込み、やがてチャーリー・パーカー(アルト・サックス)のバンドで活動するようになる(一年間ほど、マイルスとチャーリー・パーカーは共同生活をしていた)。1945年、アルト・サックス奏者、ハービー・フィールズのレコーディングに参加し、1947年には初のリーダー・セッションを吹き込んだ。マイルスが音楽活動を開始した時期は、白人のためのダンスミュージックであったビッグバンド・ジャズ(演奏家の多くは黒人)から、ビバップと呼ばれる、より芸術性の高い黒人音楽としてのジャズへと移ってゆく頃であり、ニューヨークに渡って録音をスタートした時点では、すでにビバップ全盛となっていたのだった。

 

ビバップの頃のジャズメンの装い

 ところで、私の手元に『Esquire 1946 Jazz Book』という大判の雑誌がある。その年のジャズ・シーンの動向や活躍したミュージシャンを紹介するもので、モノクロだが写真もたっぷり掲載されている。調べてみるとこのシリーズは1944年に始まったそうで、これが3号目。一冊まるごとジャズの本が編まれるほど、ジャズに熱狂する人が多かったことがわかる。ここに載っている写真は、ステージ上のジャズ・ミュージシャンの姿がほとんどなのだが、当時のジャズメンのファッションを知るうえでは非常に興味深い資料となる。たとえば「ジャズ・サックスの父」と称されるテナー・サックス奏者のコールマン・ホーキンス。スーツはラペル幅が広いチョークストライプのダブル・ブレストで、白いレギュラーカラーのシャツに抽象的な柄のタイを合わせ、頭上にはハットといういでたちだ。チャーリー・パーカーはライトグレー、チョークストライプのシングル・ブレストで、こちらもゴージは低く衿幅が広い。ラペル幅の広いジャケットにゆったりとしたトラウザーズというバランスのスーツは、この時代にあっては取り立てて珍しいものではなかったが、ミュージシャンたちのスタイリングは、総じてどこか夜っぽいというか、グラマラスな印象である。ちなみにこの号にはマイルスの名前はまだない。

 

アイビー・スーツに身を包んで

 1948年、マイルスはピアニストで編曲家のギル・エヴァンスやバリトン・サックス奏者のジェリー・マリガンと親交を持つようになり、それはアルバム『クールの誕生』(1949-50)に結実する。ビバップの洗礼を受けつつも、抑制の効いたこのアルバムは、スリリングな高速のリズム、卓越した演奏力から生み出される長い即興パートという特徴を有するビバップとはずいぶん異なるものだ。ジャズの傾向は、こののちビバップの芸術性を継承しながらもやや速度を落としたハード・バップと呼ばれるスタイルに移行してゆくのだが、このハード・バップの嚆矢はマイルス・デイヴィスの『Dig』(1951)とされている。このアルバムから10年ほどの期間はモダン・ジャズの黄金時代と呼ばれるほど、興隆を極めたのだった。そして、マイルスをはじめとするジャズ・ミュージシャンたちの服装も変わっていった。すなわち「ビバップ時代の身なりは最も控え目に言ってもけばけばしいものだったが、ハード・バップはアイビー・リーグそのものの、ダーク・ブルーのスーツに全メンバーが身を包んだバンドを登場させた」(ビル・コール著、諸岡敏行訳、晶文社刊『マイルス』)。ちなみに、モダン・ジャズが音楽、ファッションともどもロンドンの初期モッズたちに愛好されたのはよく知られるところである(モッズはモダニストの短縮形)。

 

大きな変化を遂げた60年代の終わり

 60年代後半まで、マイルスの服装は細いラペルのアイビー・スーツに細身のブラックタイといったものだったが、1969年のアルバム『ビッチェズ・ブリュー』の頃になると、ファッションも音楽も一気にアップデートされる。ご存じのようにこの時代のトピックスはベトナム反戦運動やヒッピー・ムーブメント、ロックやファンクの台頭などであり、マイルスはそれと呼応するように、音楽はエレクトリック化し、服装はファンキーなカジュアル・ルックへと変化を遂げたのだ。

 1975年からしばらく休養期間があり、1980年代に復活を果たしたマイルスは、最新のデザイナーズ・ブランド──たとえば日本の〈アーストンボラージュ〉など──に身を包んでいた。以後、晩年までこうした傾向は続くが、気迫が服を着ているようなその佇まいは圧巻であった。マイルスの自伝『マイルス・デイビス自叙伝』の作者で1985年からマイルスと親交の深かったクインシー・トループは『マイルス・アンド・ミー 帝王の素顔』(中山康樹監修、中山啓子訳、河出書房新社刊)の中で、こう述べている。「彼は我々を引きとめるために、深夜によくファッション・ショーをはじめたものだ。クロゼットからさまざまな服を取り出しては着飾り、我々の前でモデルのように歩いてみせた」。

 

自己を更新し続けたマイルス・デイヴィス

 1980年のカムバック以降、音楽的にはよりクロスオーバー/フュージョン色を濃くしたポップ路線の作品が続き、モダン・ジャズ期からのファンは戸惑いをみせたが、『You’re Under Arrest』(1985)ではマイケル・ジャクソン「Human Nature」とシンディ・ローパー「Time After Time」を取り上げ、新たなリスナーを開拓した。思えば、マイルスはそのキャリアの中で音楽もファッションも更新を重ねてきたわけで、そうした活動を通じて、ジャズをその時代のヒップな音楽として提示し、また、ファッショナブルな装いや高級スポーツカーで黒人の成功者という姿を表現してきたのではないだろうか。なお、『マイルス・デイヴィス クールの誕生』の劇場パンフレットに「マイルス・デイヴィスの装いと時代」と題したテキストを寄せているので、劇場に足を運ばれた方はお手にとっていただけたら幸いである。