歌川国芳『武田上杉川中嶋大合戦の図』(部分)

(乃至 政彦:歴史家)

川中島合戦で上杉謙信と武田信玄の一騎討ちはあったのか? 歴史ファンならずとも気になる「伝説」であるが、物理的な証拠がない以上、既存の文献情報をベースとして、想像するしかない。当時の書状と感状、『甲陽軍鑑』や『謙信公御年譜』の軍記や、その他の関連史料をヒントに考察する。(JBpress)

伝説を探る手がかり

 永禄4年(1561)の第四次川中島合戦で、上杉政虎(謙信)武田信玄の一騎討ちはあったのかという大きな謎がある。これを解き明かす方法を考えてみたい。

 まず思いつくのは、武田信玄の血判状などをDNA鑑定して、次に謙信が川中島で使ったと考えられる太刀を絞り出し、その太刀を片っ端から調べ上げて、刃先に染み付く血痕を検出することだ。そこに信玄と一致する血脂の跡を検出できれば、「一騎討ちはあった」と確言することができるだろう。

 だが、実際にできるかは疑問である。459年前の血痕が、当時の金属に鑑定可能なほど残っているか不明だからだ。ちなみにこのとき政虎が使った太刀は、一般的には「小豆長光」だったと言われている。だが、そういう名前の太刀は現存していない。小豆長光というのは、あとから作られた愛称なのだ。そしてどの太刀がそう呼ばれたかは不明である。わたしは、肥前の「国吉」だったのではないかと見ているが、これも今は行方不明であるらしい。

 つまり物理的な証拠を探し出すことができないのが現状である。ならば、既存の文献情報をベースに想像するしかない。当時の書状と感状、そして『甲陽軍鑑』や『謙信公御年譜』、そのほか関連する軍記類をヒントに考えてみよう。

決戦部隊としての馬廻

 両軍が川中島で決戦となったとき、政虎の目的は明確であった。信玄ひとりを殺害することである。この時代の大名は、どこも共通して軍団最強の旗本(馬廻)を持っていた。その構成員は基本的に、大名の城下に居住する親衛隊で、武装も国内最強だったはずである。

 大名の馬廻は、決戦時に大名の攻撃または防衛に使用された。桶狭間合戦では、織田信長が馬廻を攻撃隊として敵本陣に投入せしめた。対する今川義元も、馬廻に円形隊形を取らせて自身の防衛隊に用いた。最強の部隊同士が戦い、最終的には信長の馬廻が勝利した。織田軍が義元の首を討ち取ったのである。

 ただし信長も義元もこの時代では当たり前な軍制と用兵で戦っており、馬廻同士の対決は偶発的に生まれた(または強引に巻き起こされた)事件だった。ところが、こうした馬廻同士の決戦を、人為的に誘発させるシステムを取り入れた人物がいた。上杉政虎である。

 政虎は馬廻を攻守両用の決戦部隊として活用した。馬廻以外の諸隊に、敵の諸隊を停止・拘束させて、自らの馬廻を敵の馬廻に突進させる「自身太刀打ち」を仕掛けると言うものである。武田信玄は政虎の戦法を「車懸り」と呼んだ。

 この戦法が首尾よくいけば、政虎本隊たる馬廻は、敵の大将・信玄を斬殺することになる。政虎は最高級の刀剣と甲冑を装備して、武芸の腕前も達人級だった。信玄討ち取りの意欲にしたって誰よりも高い。馬廻に任せるより自分で太刀打ちするのが合理的だ。第四次川中島合戦において、政虎はこうした得意の用兵を使い、信玄相手に一騎討ちを挑もうとしたのである。