(写真:アフロ)

35年前の8月12日午後7時ごろ、日本航空のボーイング747型機が長野県との県境にほど近い群馬県・上野村の山中に墜落。524人の乗客乗員のうち、実に520人が亡くなるという航空事故史上最悪の事態となった。翌13日、自衛隊、警察、消防などに加え、多くの取材陣が事故現場に向かった。そのうちの一人、フォトグラファーの橋本昇氏が、鎮魂の意を込めて、35年前に見た光景を、当時の写真とともに振り返った。(JBpress)

慣れない山道に悪戦苦闘する報道陣

(フォトグラファー:橋本 昇)

 ペディキュアはきれいに残っていた。

 毛布に包まれた遺体の先から、わずかに覗いた足の指の爪に濃いパールピンクのペディキュアが塗られているのが見えた。

 乗客乗員合わせて524人を乗せた日航ジャンボ機は、群馬・長野の県境の奥深い山の尾根に激突。尾根筋をえぐり、木々をなぎ倒し、機体は四散して燃え尽きていた。

 1985年8月12日、19時頃、羽田空港を飛び立った大阪伊丹空港行き日本航空123便ジャンボ機が、消息を絶ったという大ニュースが日本中に駆け巡った。時間が経つにつれ、消息不明から墜落へと変わった。

 現場は長野県と群馬県の山境らしいという。未確認情報を頼りに中央高速を急いだ。

 夜が明け、御巣鷹山へ続く峠から、山道を自衛隊員たちの後ろについて登っていった。

 ところが暫くすると息が荒くなり、一歩踏み出すごとに体中から倦怠感が波のように押し寄せた。一分でも早く現場へ行きたと焦る気持ちと疲労感が交互に体全体を駆け巡る。

 ようやく一つ目の山の尾根付近までやって来た時、前方に亡者のようにふらふらと歩いている、記者らしきスーツ姿の男が眼に入った。男は山道脇の繁みに倒れ込むように横たわり「水持ってませんか?」と聞いてきた。男は何も持っていなかった。汗と埃でよれよれになったシャツとスーツを片手に持ち、しかも革靴、まったくの都会スタイルだった。少し水を飲ませた。男の直ぐ側の木の梢で、美しい声の小鳥が我々の苦悶も知らずに、盛んにさえずる。

 その後も現場へ続く山道の先々で、知り合いのカメラマンや記者たちが喉の渇きと暑さで道に倒れていた。驚いたことに、放送局名のわかる業務用のビデオカメラまで棄てられていた。行き倒れの彼らはほんの裏山にでも登るような軽い気持ちで海抜2000メートル近い墜落現場を目指してきた。それが間違いだった。