文=平松 洋

愛する人よ!何故、君は名前を変えたのか?

 個人的な話で申し訳ない。今から36年前の春のことである。その女性に出会って、一瞬で、恋に落ちてしまった。長い時間、互いに見つめ合った後、別れがたく、何度も彼女の元へと足を運んだことを記憶している。しかし、その数か月後、彼女は、故国へと帰ってしまった。それから、月日は飛ぶように過ぎ、やっと再会できた時には、名前が変わっていた。

 許せなかった。周囲は、何も言わず、そのことを受け入れているようだった。しかし、私には、許せなかった。彼女は、昔と、何も変わらないかのように、その潤んだ瞳で、私を見つめ続けた。ますます、許せなくなった。彼女はより美しくなって帰ってきたが、その眼差しも、可憐な唇も、初めて出会った時と変わらない。なのに、彼女の口からは、名前が変わったことの釈明すらない。周囲の人も、何があったか教えてくれない。一言の説明もないなんて・・・。許せなかった。だから私は、その経緯が知りたくて、彼女を見守るお付きの女性に問い正したが、何も答えてはくれなかった。

 かつて交際した女性に数年ぶりに再会して、苗字が変わったことを伝えられた時、対応に困ったことはないだろうか。夫婦別姓が浸透しつつある現在とは違い、私が若い頃には普通にあり、なぜかドギマギしたものである。しかし、上記の話は、そうした艶話ではない。かといって、架空の話でもなく、現実に起きた実話である。ただし、その女性とは、血も通っておらず、人間ですらない。

 聡明な読者の方なら、もうお気づきだと思うが、私が恋に落ちたのは、17世紀オランダ絵画の中でも最も人気を誇るフェルメールが描いた『真珠の耳飾りの少女』(図1)である。さらに、現在、50代以上の人であれば、この作品が、かつては違う名前で呼ばれていたことをご存じのはずだ。

図1:ヨハネス・フェルメール『真珠の耳飾りの少女』1665年頃、キャンヴァスに油彩 マウリッツハイス美術館

 時はまさに、今から36年前、1984年のことである。上野の国立西洋美術館、愛知県美術館、そして、北海道立近代美術館を巡回した「マウリッツハイス王立美術館展」が開催された。その際、初来日したこの作品は、『真珠の耳飾りの少女』とは決して呼ばれていなかった。そう、そのタイトルは、『青いターバンの少女』であった。

 その16年後、2000年に大阪市立美術館で開催された「フェルメールとその時代」展においても『青いターバンの少女』として紹介されているが、前回と少し違っていたのは、そのタイトルに、カッコ書きで(真珠の耳飾りの少女)と記載されていたことだ。

 さらに、その12年後、2012年に、東京都美術館と神戸市立博物館を巡回した「オランダ・フランドル絵画の至宝 マウリッツハイス美術館展」において3度目の来日を果たす。作品タイトルは、『真珠の耳飾りの少女』で統一され、カタログ掲載の論文では、なんと12年前の大阪での展示も『真珠の耳飾りの少女』として紹介され、かつてこの作品が『青いターバンの少女』と呼ばれていたことに一切言及していない。上記の話の後半は、この時の都美館での経験を語ったものである。

 ちなみに、2004年の「栄光のオランダ・フランドル絵画展」、2008年の「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」展、2018年~19年の「フェルメール展」では、作品こそ展示されていないが、カタログの中で、この作品は全て、『真珠の耳飾りの少女』として紹介されている。つまり、日本においては、2000年前後に何か決定的な「事件」が起きて、名前が変わったのである。