亡くなった横田滋氏(右、左は妻の早紀江氏、2014年3月19日、写真:AP/アフロ)

 2020年6月5日午後,病気療養中の横田滋氏が老衰のため87歳で亡くなった。半生を捧げた拉致被害者救出活動にもかかわらず、愛娘のめぐみさんを抱きしめることは叶わなかった。

 滋氏は日本銀行新潟支店で勤務していた1977年、長女のめぐみさん(当時13歳)が失踪する。20年後の1997年2月に北朝鮮による拉致の可能性を産経新聞が報道し国会でも取り上げられると、翌3月に日本各地の被害者家族とともに家族会を結成し代表に就任した。

 以来、妻の早紀江氏とともにすべての都道府県を巡回して救出を求める署名活動や1400回を超える講演を重ね救出運動に尽力する。

 拉致被害家族の象徴的存在として活動を続けるが、持病に加え、長年の活動の疲労も加わって2007年に代表を退く。しかし、世論の関心を維持するため定期的に病院で検査を受けながら各地で被害者の帰国を訴え続けた。

 滋氏の死を聞いて筆者の心中を過ったのは、横田氏の無念さもさることながら、日本のマスコミと政治家たちの頼りなさ、不甲斐なさに対する怒りであった。

 そして、一体全体、ジャーナリストと政治家たちは、めぐみさんをはじめとした拉致被害者たちを「わが家」の問題として考えたことがあるのだろうかという懐疑であった。

横田夫人のコメント

 早紀江夫人は「報道機関各位」として、息子2人との連名で要旨下記のコメントを出したが、どんな心境かと思いを巡らすと、いたたまれない気持ちになった。

「これまで安倍総理大臣をはじめ多くの方々に励ましやご支援をいただきながら、北朝鮮に拉致されためぐみを取り戻すために、主人と二人で頑張ってきましたが、主人はめぐみに会えることなく力尽き、今は気持ちの整理がつかない状態です」

「報道関係者の皆様におかれましては、主人との最後の時間を大切に過ごし、心安らかに見送ることができますよう自宅及びその周辺・葬儀会場及びその周辺における取材や写真撮影はご遠慮いただきますようお願い申し上げます。お電話での取材もご遠慮願います」

 ざっくり言って、謝絶である。

 行間からは、わが娘をはじめとした拉致家族たちがどんな思いで、過ごしてきたか。報道関係者は、事実が判明した以降も国民に周知し、政治家をして被害者を一日も早く救出せざるを得ないような心境にさせるどれほどの努力をしたかと問うているようである。

 憲法の精神や日本人的感覚からすると、人命は至上で、ここ数年でいえばモリカケや「桜」問題、さらに遡ればその他諸々あった中でも本来は上位に位置づけられるべきものではなかったか。

 手元に拉致問題を報道し続けた元産経新聞記者・阿部雅美著『メディアは死んでいた〈検証 北朝鮮拉致報道〉』がある。

 あちこちの講演に一緒に行動した阿部氏は、労わりあって歩く夫妻の後ろ姿に心を打たれたという。