足利義輝肖像(部分) 光源院蔵(東京大学史料編纂所模写)

(乃至 政彦:歴史家)

 上洛の6年前、上杉謙信は武田信玄と川中島で合戦を開始。謙信が開発したのが「車懸り」という移動型陣形だった。後に武田や北条が模倣し、江戸時代には全国の大名がそのままを取り入れた。近世の「大名行列」ともいえる陣形は、どのようなものだったのか?(JBpress)

1500人の景虎親衛隊

 永禄2年(1559)、夏の京都──。

 昨年まで近江国に逃れていた将軍が帰京して、その祝いというわけでもないが、諸大名が拝謁を求めて上洛していた。そのうちのひとりに越後国の太守・長尾景虎(上杉謙信)の姿もあった。

 前回は景虎が、将軍(足利義輝)と関白(近衛前嗣)と親交を深めて、密命を託されるところまでを説明した。今回はかれらが景虎に絶大な信頼を寄せる一因となったであろう景虎の軍隊編成について述べることにしたい。

 まず上洛時の兵数を見てみよう。これは史料によって大きな差異がある。江戸時代前期に諸般が編纂した『謙信公年譜』『細川家記』『上杉家譜』を見ると、景虎は5000余人を連れて畿内に入ったという。軍記類を見ると、『武辺咄聞書』は3000人、『鎌倉管領九代記』『小田原記』は300人、『応仁記』は50余人と記している。

 もっとも確度が高いのは、これらより当時の史料である。公家の日記である『言継卿記』を見ると、京都に入ったのは1500人ほどとされている。これが実態に即した兵数だろう。

 5000人と比べると少ないが、それでもこれだけの人数を連れて在京した大名は、同時代では景虎だけで、前代未聞の大人数だったのは間違いない。大名の直属軍は「旗本」(馬廻とも)と呼ばれる親衛隊で、これらは精鋭中の精鋭であった。景虎が動員したのもこの「旗本」である。越後最強の兵団が本国にいないとなると、その国防はかなり手薄になったはずである。実際、その留守を武田晴信信玄)に狙われて、威力偵察を受けている。

 それでも景虎は「国之儀を一向に捨て置き」て構わず、今後も将軍さまに奉公していきたいと述べている。将軍たちは景虎の覚悟に心から驚き入った。

景虎の旗本行列

 上洛の6年前、長尾景虎は川中島で武田晴信と合戦を開始。以後、3度ほど紛争を繰り返している。ここで景虎が開発したのが、村上義清から継受した移動型隊形である。これは「車懸り」と呼ばれる作戦と組み合わせることで、その効果を最大限に発揮する画期的な隊形だった。

 簡単に説明しよう。まず全軍が敵の旗本以外の軍勢をすべて足止めする。そして自身の旗本で、敵の旗本に突き進む。これが俗に言う「車懸り」の戦法である。

 景虎はここで、自身の旗本が常勝するための仕組みを編み出していた。「五段隊形」である。

 景虎の旗本は二列で移動した。

 はじめは先頭に鉄砲隊の歩兵が歩いて進む。敵の旗本を視認すると、縦列から横列へと左右に展開する。すると、あとに続く兵科も前に習って、いくつもの横列を作っていく。鉄炮隊は銃撃を繰り返す。次の兵科は弓隊で、これも弓射を繰り返す。

 当時、野戦で遠距離武器を一斉射撃する用兵はなかったので、これを食らう既存の旗本は間違いなく色を失う。まさに初見殺しだ。その刹那を狙って長柄の鑓が突進して、敵の歩兵を押し込む。敵の動きを拘束するのだ。そして、旗持ちの誘導で、決戦兵科の騎馬隊が敵の旗本奥深くへ殺到する。完全武装の景虎もそこにいる。狙うは総大将の首ただ一つ。得意の「自身太刀打ち」で勝負をつける。

 これは上田原合戦で村上義清が使った戦法だった。義清は武田晴信の密集隊形を打ち崩し、騎馬突撃を成功させた。この時、晴信を負傷させる戦果を挙げたが、討ち取るまでには至らず、最後には村上軍総崩れという大敗に終わった。

 旧領を逐われた義清は越後国へ亡命すると、景虎にこの用兵を教えた。すると景虎は、大国越後の財力と人材をすべて費やし、義清以上に武装と訓練を徹底化した。このため、川中島では、いつも武田軍が長尾軍との正面対決を避ける構図が繰り返されることになった。

『謙信公御年譜』巻七「御馬廻之軍列」(部分)東京大学史料編纂所蔵