東大寺 写真提供/倉本 一宏

(歴史学者・倉本一宏)

唐で実力をつけた僧・行賀

 続けて遣唐使関係の人物を紹介しよう。また僧の話であるが、前に紹介した僧正善珠(ぜんじゅ)とは、随分と趣きが異なる。

 それは行賀(ぎょうが)という僧の物語で、『日本後紀』巻十一の逸文、延暦二十二年(八〇三)三月己未条(八日)である。

大僧都(だいそうず)伝燈大法師位行賀が卒去した。行年七十五歳。俗姓は上毛野(かみつけの)公、大和国広瀬郡の人である。十五歳の年に出家し、二十歳で具足戒(ぐそくかい)を受け、二十五歳の年、入唐留学僧(にっとうるがくそう)となり、唐に三十一年間滞在して、唯識(ゆいしき)・法華(ほっけ)両宗を学んだ。帰国した日に、その学問を試みることとなり、東大寺僧明一(みょういつ)が難しい宗義を問うたところ、はなはだ惑い、解答することができなかった。明一がすぐに罵(ののし)って云ったことには、「日本と唐の両国で生活の費糧を受けながら、学識は浅はかである。どうして朝廷の期待に背き、学問を身につけて帰らなかったのか」と。法師行賀は大いに恥じ、とめどなく涙を流した。これは長らく異郷に住み、ほとんど日本語を忘れたためであった。千里の長途を行く者にとり、一度躓(つまづ)いたところでたいしたことはなく、深林にわずかな枯れ枝があっても影が薄くなることはないものである。行賀に学問がないとすれば、どうして在唐時代に百人もの僧侶が講説(こうせつ)・論義(ろんぎ)を行なう場で第二位の座に着くことができたであろうか。『法華経疏』『弘賛略』『唯識僉議』など四十余巻があるが、これはつまり行賀法師の著作である。また、仏教経典や論疏(ろんそ)五百余巻を書写してもたらした。朝廷はそれにより弘く利益することを喜び、僧綱(そうごう)に任じ、詔を下して門徒三十人を付し、学業を伝えさせることにした。

 延暦二十二年(八〇三)で数え年七十五歳というのであるから、天平元年(七二九)の生まれということになる。上毛野公の出身である。先祖は上野(こうずけ)国(現群馬県)の豪族だったのであろうが、上毛野氏は早い時期から大和国に地盤を有していた。

 天平十五年(七四三)に十五歳で出家したというから、今で言うと中学生くらいである。二十五歳の年に入唐留学僧となったというのは、天平勝宝五年(七五三)であるから、第十二次遣唐使の際であった。今で言うと大学の学部生か修士の大学院生くらいであろうか。

 先に述べた羽栗翔が遣唐録事として発遣された際のものである。ちなみに、大使が藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使が吉備真備(きびのまきび)と大伴古麻呂(おおとものこまろ)であった。彼らは七五三年正月に長安の大明宮で行なわれた朝貢諸国使節による朝賀に出席し、日本の席次が(当時は日本が朝貢国であると主張していた)新羅(しんら)より下位にあったことを抗議し、席次を交換させた(と古麻呂が帰国後に主張した)。

 なお、一行は十一月に四隻で帰路に就いたが、第一船の清河は鑑真(がんじん)を同行させることを拒否し、第二船の古麻呂が鑑真を乗船させた。結局、第一船に乗った清河と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は安南(あんなん/現ベトナム中部)に漂着し、第二船に乗った鑑真は、屋久島・薩摩国を経由して来朝することができた。

 ただし古麻呂は藤原仲麻呂に対抗する橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)と連携して、天平宝字元年(七五七)に「奈良麻呂の変」で獄死(「杖下に死ぬ」)することとなる。第三船に乗った吉備真備は紀伊国に漂着し、天平宝字八年(七六四)に恵美押勝(えみのおしかつ/藤原仲麻呂)を倒すこととなる。

 さて、行賀は唐に三十一年間も滞在し、唯識・法華両宗を学んだ。在唐中、百人の僧が講説・論義を行なう場において、第二位の座に着くほどの実力を付けた。そして『法華経疏』『弘賛略』『唯識僉議』など四十余巻を著作し、仏教経典や論疏(註釈書)五百余巻を書写して、帰国時にもたらした。

 航海中に嵐に見舞われると、まず経典類を海に捨て、それでも収まらないと僧を海中に投じるので、これらの書と共に行賀が帰国することができたのは、まことに幸運なことであった。