photo: Nobutada OMOTE | SANDWICH
《洸庭》

禅寺に現代アート

 アートというと美術館やギャラリーで楽しむものと思っていないだろうか。それは決して間違いではないが、かといって、美術館やギャラリー「だけ」でしか楽しめないということはない。昨今では、なんとお寺でもアートを味わうことができる。今回は、そんなところをご紹介しよう。

 広島県福山市の天心山 神勝寺。臨済宗の禅寺で、日本のみならず海外からの修行者にも門戸を開く国際禅道場を有するこのお寺には「神勝寺 禅と庭のミュージアム」という別名がある。お寺にミュージアムというのも奇妙なのだが、ここでは大真面目にアートがプロデュースされている。それも仏画や仏像ではなく、現代アートというのだから驚きだ。

 白眉は《洸庭(こうてい)》という作品。建築として設計施工されているが、同時に巨大な彫刻ともいえるものだ。大きさは小学校のプールがまるごと収まるほどのスケールがあり、その巨大な物体が地上10メートルの高さに浮遊するように建っている。彫刻家の名和晃平とクリエイティブ・プラットフォームSANDWICHによるコラボの成果だ。

 鑑賞者は、人数を制限した入れ替え制で内部に入り、20~30分ほどの体験をする。体験そのものが作品の本質なので、あまり詳しく書くとネタバレになってしまうため伝え方が難しいのだが、それは他に類を見ない体験ではある。

 なかに入ると、そこは自分の手さえ見えないくらいの闇が支配する世界である。いったい、何が起こるのかと期待と不安が入り交じった気持ちで待っていると、ふいに闇の彼方に一条の光が見えてくる。そして、見る者は闇と光が織りなす静謐でありながらもエモーショナルなスペクタクルを目の当たりにすることになる。

 《洸庭》が伝えるものは何なのか。それはおそらく、見る人ごとに答えが違ってくるはずだ。一応、お寺側の案内によれば、「現代美術の領域から禅の教えを解釈/表現した」ものとなっているが、それにとどまらず、もっと別なものを受け取ってもよい。

 たとえば、「普遍的な生命の深淵を感じた」という人がいてもおかしくないし、「宇宙の摂理を見た気がする」という人が出てきても不思議ではない。アート鑑賞とは、「正解を知る」ものではなく、その人ごとに意味ある何かを見出す営みだからだ。

 ところで、ここまで、ついつい「見る」とか「目の当たりにする」などと書いてきたが、こと《洸庭》に関していえば、「見る」という言い方に限定するのは適切ではない。人は闇のなかに置かれると、視覚を奪われて他の感覚がにわかに鋭敏になる。一般にアートは「見る」ことがメインではあるが、聴覚、嗅覚、触覚、さらには味覚をも総動員するとき、鑑賞のさらなる可能性が切り拓かれる。

 《洸庭》もそういう鑑賞をもたらしてくれる。暗闇のなかで繰り広げられるものをただ見るだけではなく、耳をそばだて、全身で感じ、空気のなかにごくわずか混じる匂いや湿り気にも神経を向けるとき、いままでに味わったことのない感覚に襲われる。アートは五感で鑑賞するものでもあることを教えてくれるのだ。

 ともあれ、よくぞこんなものをつくったと驚嘆を覚えること必定である。世界にも類を見ないアートとして、一度は見ておく、というより全身で体験しておいて損はない。

 

白隠のコレクションや温泉も

 さて、神勝寺には《洸庭》のほかにも見どころがいろいろある。「荘厳堂」では白隠禅師のコレクションを見ることができる。禅画や墨跡約200点の所蔵を誇り、そのなかから随時展示替えをしながら20~30点ほどを常設展示している。

photo:Tsuneo Horiide
《半身達磨》神勝寺 禅と庭のミュージアム蔵

 荘厳堂は入り口(総門)からもっとも奥まった場所に位置しているため、庭園を通ってアプローチすることになる。禅寺の静かな広い庭をじゃりじゃりという足音を響かせて歩いていくという行程は、何やら人生の歩みに似たものをふと感じさせる。自分の来し方行く末を内省する機会になるかもしれない。

荘厳堂

 禅と庭のミュージアムという名前があるだけに、庭園も魅力的だ。四季折々の庭園美を楽しみながら散策することができる。いましがたの《洸庭》の体験をじっくり振り返り、その意義を確認しつつ自分のなかに浸み込ませる時間にしてもよい。

浴室(檜)

 さらに驚くのは「浴室」、つまりはお風呂があって、誰でも入浴できることだ。禅では生活の立ち居振る舞いすべてが修行とされ、お風呂に入って心と体を清めるというのも立派な修行の一つなのだ。ちょっとぬるめのお湯に浸かって無想でいるひとときは、日々多忙なビジネスパーソンには必要な時間なのかもしれない。