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 評論家・坪内祐三の「訃報」がもたらされた。

 目を疑った。まだ60ちょっとの年配と思われる。そんな馬鹿な・・・と思いつつ情報を検索すると、本当に亡くなっていた。

 数日考え、本稿を準備した。あえて記すなら「死者を鞭打つ」ためである。

 筆者は生前の坪内氏と一切面識がない。というよりも、すでに30年以上前のことになるが、意識して坪内氏らを避けていた時期がある。

 いろいろな意味で才能と可能性にあふれ、また自分とは決して接点がない方がよいと思っていた。

 しかし、その人の訃報に接し、やはり何か書かずにはいられなかった。彼の行動や言説には、今日を逆照射するいくつかの意味があるように思われるからである。

「東京人」の坪内さん

 私が坪内祐三氏の名を初めて耳にしたのは、雑誌『東京人』(http://www.toshishuppan.co.jp/tokyojin.html)の編集者だった頃、文化人類学者の山口昌男さん、ないし彼の身近にいた人々からであったと思う。1987~89年頃のことである。

 その頃、私は大学生であったが、学園祭の委員として知遇をいただいた山口昌男さんに大変可愛がられ、山口さんたちが根城にしていた新宿の飲み屋「火の子」の常連に連ならせていただいた。

「火の子」は、内城育子さん(育さん)が開いていた知る人は知る伝説的な酒場で、ある時期の日本の思想界、特に「ニューアカデミズム」と呼ばれた思潮の中心となるサロンの一つであった。

 シニアでは伊藤信吉、串田孫一といった方々、中堅として山口さんや磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄次郎、あるいは岸田秀、丸山圭三郎、渡邊守章、蓮実重彦といった人々が酔客として論を戦わせる店だった。

 栗本慎一郎、上野千鶴子、中沢新一といった人々は若手であった。柄谷善男(行人)氏が、岩井克人氏に京都で「発見」された新しい才能、浅田彰氏を引き合わせた場所でもある。

 当時の常連を考えると1940年代生まれはいまだ30代、浅田さんなど20代は文字通り「新人類」で、「ニューアカ」ブームがここから発振した、震源地の一つであった。

 育さんの方針で、若い人に大変懇切な店であった。