小沢一郎氏(2007年1月撮影。写真:Reuters/AFLO)

 選挙対策と国会運営のコツを体得した小沢の時代がいよいよ到来する。心身ともに充実した40代の小沢は、「剛腕」幹事長として自民党のど真ん中に君臨していく。

 1984年12月、竹下登をトップとする「創政会」(後に経世会)の旗揚げに向けた動きが加速していた。田中派内で、いつまでたっても“家督”を譲ろうとしない闇将軍・田中角栄に対し、中堅・若手の不満が鬱積していたのだ。創政会中核メンバーである小沢、梶山静六、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三らは会合を重ね、85年1月下旬には、田中派約120人のうち、約80人が創政会に参加する段取りをつけた。

 しかし、創政会の実態に田中が気づくと、事態は一変する。田中は「竹下のクーデター」とみて徹底した切り崩しを行い、約半数が85年2月7日の初会合への出席を見送った。出席者は40人だった。

(前回はこちら)
議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈2〉 1980年代前半~躍動
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58881

梶山静六「小沢にはかなわない」

 85年2月6日夜、創政会中核メンバーは赤坂プリンスホテル新館に陣取り、翌日の初会合に向けた最終確認を焦りながら続けていた。出席予定の議員に電話をかけるも、不参加を表明する議員が続出、電話に出なくなる議員も増えていた。政界最高実力者・田中の怒りを前に、誰もが恐れおののいていた。

 金丸は、事態を打開しようと、田中に会おうとした。田中を長年取材した早野透の『田中角栄』(中公新書)によると、2月6日夜、田中の秘書・早坂茂三が金丸に電話し、「田中と会って話をしてくれ」と伝えた。金丸は部屋を出ようとしたが、小沢らがそれを止めた。2月6日夜の様子については、当事者たちへの取材に基づいた政治記者の著書、関係者の証言でほぼ明らかになっている。