アフガンで銃撃された中村哲医師の遺体。前列先頭左はアフガニスタンのアシュラフ・ガニー大統領(写真:新華社/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 昨年12月12日の「毎日新聞」の28面をめくったとき、「オッ」と驚いた。いや驚いたわけではない。「!」と思った。右側の28面には「ノーベル賞授賞式 吉野さん『実感湧いた』」の記事。ノーベル化学賞のメダルを手にした吉野氏と奥さんのにこやかな写真が掲載されている。だがそれと隣りあわせになった左側の29面には、「アフガン復興 志継ぐ 中村医師の葬儀 1300人が別れ」の記事が出ていたのだ。そこには中村哲さんの遺影と中村さんの棺が運ばれている写真も掲載されていた。

 まさに明と暗。最高の栄誉と最悪の悲劇。この対比は意図的になされたことか。かたや、これ以上ないほどの国家的栄誉、人生最大の華麗なる瞬間、高額な賞金。かたや、遥かな遠い地で銃殺された人の葬儀。「アフガンの英雄」と称えられはしても、貧しい地域での埃のなかでの悲惨な死。夫を失った妻と父を失った息子と娘。

 この二つのニュースが奇しくも左右に隣り合って掲載された。これがただの偶然であろうか。わたしには、読者諸氏よ、このおふたりの対極の人生からなにを感じますか、と問いかけられているように思われた。

同じ時代を生きた人のこの対比はなんだ?

 現にわたしは、なんだこの対比は? と思ったのだった。ひとりはノーベル賞受賞者、もうひとりは銃撃に倒れた人である。ふつうに生きていれば、日本人で銃で殺されることなど、ありえないことである。だが、そういう危険に晒されながら、現実にそういう人生を送る人がいる。おふたりはわたしとほぼ同世代である。中村哲氏は1946年生まれ、わたしは1947年生まれ、そして吉野彰氏は1948年生まれである。それがどうした? ではあるが、おなじ時代を生きてきた。

 ストックホルムでの吉野彰氏の姿が映像で流れる。吉野さんはいつみても笑顔満面である。奥さんも同道してこれ以上なくしあわせな様子。わたしは映像を見ながら、いやいや、もう手放しの喜びぶりだなあ、と思う。「(気分は)最高です」「やっと受賞の実感が湧いてきた。(メダルは)純金だから重いんです。ずっしりと」。こういう美談には感想のもちようがない。日本や日本人にとっては栄えあることなのだろうが、わたしはノーベル賞受賞者にあまり共感したことがない。幸せな人は放っておけばいいからである。