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中臣鎌足生誕の地とされている大原神社(奈良県高市郡明日香村)。大伴夫人が母親との石碑があるが、大伴氏のどういう女性だったか不明。「鎌足=豊璋」の真実を隠すアリバイ工作だったのでは(筆者撮影)

(文:関裕二)

 徴用工問題や半導体材料の輸出管理強化などをめぐる問題で、日韓が対立し、関係は極端に冷え込んでいる。

 日本側にも責任がある。要求すべきは要求し、拒否すべきは拒否するという「まっとうな外交」をしてこなかったツケが、亀裂を生む結果となった。もちろん、妥協も大切だが、ここは「当たり前の外交」を貫いて欲しい。

「百済はよく嘘をつく」

 古代のヤマト政権も対半島外交に苦しみ、失敗を繰り返している。たとえば欽明23年(562)に、もっとも大切な同盟国・伽耶諸国(任那)が滅亡してしまったが、ここに至るまで、ヤマト政権は稚拙な外交を繰り返したし、伽耶はヤマト政権を深く恨んだ。日本外交史の汚点と言っていい。

 伽耶滅亡の遠因は、4世紀末から北方の騎馬民族国家・高句麗が南下政策を採りつづけたことだ。百済と新羅は領土を侵食され、南側の伽耶に食指が動きはじめた。

 この間ヤマト政権は、伽耶の利権を守るために、朝鮮半島出兵を繰り返した。伽耶は貴重な鉄の産地だったからだ。また、倭の海人たちは、伽耶周辺の多島海を足がかりにしていた。

 しかしヤマト政権は、伽耶を守ることができなかった。原因ははっきりとしている。ヤマト建国後7世紀に至るまで、ヤマトの王に実権は与えられず、朝鮮半島に遣わされた遠征軍も、豪族の私兵の寄せ集めだったからだ。外交も一元化できなかった。

『日本書紀』推古31年(623)是歳(このとし)条に、象徴的な記事が載る。

 新羅が任那(伽耶諸国)を攻撃すると、任那は新羅に靡(なび)いた。そこで天皇は新羅を討とうと考えたが、蘇我系の重臣は、「まず視察して状況を確かめるべきだ」と、慎重論を展開し、新羅の肩をもった。これに対し中臣氏は「軍備を整え、新羅を討ち任那を奪い返し、百済に帰属させたい」と主張した。中臣氏の献策は退けられ、新羅に使者が向かった。ところが、このあと中臣氏らは新羅に遠征を始めてしまい、蘇我系重臣たち慎重派の面目は潰されてしまった。

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