金型の世界には名人と言われる人が何人かいる。そのうちの1人が加藤千雄(かずお)さんだ。岐阜県可児(かに)市の可児工業団地にある加藤製作所の会長さんだ。

 加藤千雄さんの父上、喜久寿(きくじゅ)さんの実家は代々たばこ製造業。江戸時代は代金を米で払う習慣があったので、米問屋も兼業していたという。明治30年代にタバコが政府専売になってタバコを扱うことはできなくなったが、貸家をたくさん持つ裕福な商家だった。喜久寿さんは手先が器用だったので、愛知時計に勤めて、そこで時計部品の作り方を勉強した。その縁で、奥さんにも出会ったらしい。

 喜久寿さんの奥さん(千雄さんの母上)は佐藤時計という、名古屋地域でも有名な時計メーカーの娘さんだった。ちなみに戦前は時計と言えば名古屋が特産地で、いくつかのセットメーカーと数多くの部品専門メーカーが存在していた。

オモチャ工場から時計部品工場へ

 喜久寿さんは結婚してからしばらくは愛知時計の工場で働いていたが、徴兵され、中国戦線に放り込まれた。

 中国戦線は非常に苛酷であったため、マラリア、結核にかかり、早い時期に帰国することができたが、終戦後の世の中は大混乱だった。家がない、食い物がない、仕事もない、すべてないないづくしの時代だった。

 喜久寿さんも何をやるかを考えたが、名古屋地区にはオモチャメーカーがないから、作れば喜ばれるだろうと、従兄弟を誘ってゼンマイ式、はずみ車式のブリキのオモチャを作る工場を始めた。

 中古の旋盤、フライス盤、など金型製造設備、ブレス加工設備を備え、周辺には町工場もなく、全工程を自前でオモチャの製造を始めたが、3年後喜久寿さんが急逝してしまった。歩兵部隊として中国で苦労したし、帰国したあと、病後でもあり創業した後の無理がたたったのだろう。息子の千雄(かずお)さんが11歳の時だ。

 設備も買ってしまったし、従業員の生活もある。そこで母上が社長を継ぐことにした。実家が経営者であったこともあって、経営者としてのセンスもよかった。この時にあまり儲からなかったオモチャをやめ、実家のツテで時計部品の製造に特化した。

 ちなみに当時の時計部品メーカーは完全分業体制で、針を作る会社、文字盤を作る会社、という風に歯車・ゼンマイ・リューズ・等々細かく分かれていて、セットメーカーはそれらの工場から部品を買い集めて組み立てるという形態だった。加藤製作所は歯車をはじめムーブメント部品など、精密部品が専門だった。