2009年8月末、光文社より『日本「半導体」敗戦』という書籍を出版した。自分で言うのもおこがましいが、極めて大きな反響があった。実際に起きたことを列挙してみる。
(1)全く面識のない数十人の読者の方から、メールで感想などのお便りをいただいた。
拙著には、メールアドレスやホームページのURLを記載していない(記載したくなかったのではなく、編集者が忘れたためである)。にもかかわらず、読者の方がわざわざ検索して連絡をくれたようだ。そして、多くの方から、「共感した」「驚いた」「面白かった」というお褒めの言葉をいただいた。
(2)出版関係者の話によれば、「半導体と名のつく本は売れない」らしい。そのため、光文社に採択されるまで、半年ほど出版社を回ったが、どこからも断られた。しかし、光文社から出版後、わずか3カ月間で、3刷り目の増刷となった。
『日本「半導体」敗戦』(光文社)出版関係者の話によれば、ベストセラー作家ならいざ知らず、無名の著者が書いた初の単行本が、このような短期間で増刷されるのは、(特に紙媒体の本が売れなくなった昨今では)極めて異例なことらしい。
(3)韓国の半導体産業関係者によれば、9月末には、韓国の半導体メーカー、サムスン電子および Hynix Semiconductor の幹部全員が、拙著の要約を読んでいたとのことである。その情報収集力と幹部の向上心には本当に驚かされた(日本ではあり得ないことだ)。また、その結果もあって、来年早々にハングル語版が韓国で出版されることになった。さらに、英訳して欧米でも出版を進めることになった。
(4)拙著を元にした対談依頼や寄稿依頼を多数受けた(事情によりお断りしたモノもある。誠に申し訳ありません。この場を借りてお詫びいたします)。その1つとして、本サイト「JBpress」より連載寄稿を依頼された。無料で誰もが読めるサイトでの情報発信は、筆者にとって大いに歓迎するところである。こうして、本コラムを執筆するに至った。
筆者は、JBpressでの連載を通して、以下のようなことを試みたいと考えている。
まず、日本半導体産業はシェアを失い、凋落し、諸外国に対して敗戦した。かつて80%の世界シェアを誇ったDRAM(Dynamic Random Access Memory、コンピューターにとって欠かすことのできない半導体メモリー)では、エルピーダ1社を残して撤退した。また、日本半導体全体の世界シェアも50%から20%へ減少した。敗戦したなら、復興があって然るべきである。筆者の願いとしては、ぜひとも、日本半導体産業に復興してほしい。その復興のためには、どのようなことが必要なのかを論じたい。
また、筆者が詳述できるのは半導体産業に関してであるが、このような敗戦と復興の事例(といってもまだ復興していないが)を、他産業にも参考にしていただけたら喜ばしい。
次に、半導体産業の正しい姿を、世の中に伝えたい。特に、半導体の製造方法については、「装置を買って並べてボタンを押せば誰でも製造できる」などというトンデモナイ誤解がまかり通っている。半導体の製造には、クルマと同じか、それ以上に高度なすり合わせ技術が必要である。このようなことを、本連載を通じて分かりやすく伝えたい。
「お前の言ったことはすべて間違っている」
次に、ちょっと詳しい自己紹介に移りたい。なぜ、自己紹介をしたいのか? その理由を述べよう。まずは少し長くなるが、拙著『日本「半導体」敗戦』に記載した出来事を以下に転載する。
<「日本半導体産業には過剰技術、過剰品質の病気がある、それゆえ、PC用DRAMを安く大量生産する韓国、台湾、米国マイクロンテクノロジーの『破壊的技術』に敗北した」という内容を、2004年秋に講演した 。筆者にとっては、社会科学者としてのデビューの舞台でもあった。この講演に対する日本半導体業界関係者の反応は、衝撃的というより、笑劇的であった。
まず、筆者の次の講演者である大手半導体メーカーの常務は、自分の発表時間の半分以上を割いて、筆者の講演内容に対する批判をまくし立てた。「日本半導体の技術力は極めて高い。日本は本物の技術力を持っているのだ。湯之上の言ったことは間違っている」と。司会を務めた教授は、「温厚なあの常務が、あんなに熱くなったのを初めて見た」と言われた。
また、立食式の懇親会にて、ある半導体メーカーの元社長が、筆者を呼び止め、もの凄い剣幕で、「お前の言ったことはすべて間違っている」と叫んだ。さすがにカチンときた筆者は、理屈で応戦した。そのやりとりは以下の通りである。
湯之上 「なぜ、あなたは、私の言ったことがすべて間違っていると思うのですか?」
元社長 「日本半導体の技術力は、実際に高いからだ」
湯之上 「なぜ、そのように判断できるのですか? どんな証拠があるのですか?」
元社長 「おれの直感だ」
湯之上 「あなたがそのように直感で感じるには、何かの根拠があるはずです。どのような根拠があって、そのような直感を持たれたのですか?」
元社長 「日本の技術は本当に強いからだ」
湯之上 「・・・」
(中略)
本講演会における湯之上批判を聞いたエルピーダメモリの坂本幸雄社長は、「DRAMの敗戦の原因は湯之上が言う通りだ。湯之上の講演を批判した常務は、馬鹿だ。全く間違っていると否定した元社長も、馬鹿だ。エルピーダの坂本が、あいつら馬鹿だと言ったと、湯之上に伝えてくれ」と述べたという。>
筆者が自説を、初めて世の中に問うた時に、このような珍事が起きた。これが日本半導体メーカーの経営者がかかっている典型的な病気だとも言える。
しかし、今思い返せば、発表者である筆者にも落ち度があった。発表の際、自分が16年半の間、半導体技術者であったことを述べなかったことだ。
半導体メーカーの常務や元社長にしてみれば、(業界のことを何も知らないと思われる)社会科学者と思しき若造に、半導体の技術がどうのこうのと言われたら、それはさぞかし腹が立つことだろうと思う。
本連載においても、「何も分かっちゃいない業界外の素人から、半導体の技術について、つべこべ言われたくないんだよ」という批判を、最初に排除しておきたい。そのために、ちょっと詳しい自己紹介を述べさせていただきたいのである。
志願して、日立からエルピーダメモリへ出向
以下に、1987年から現在に至るまで、筆者がどのように半導体に関わってきたのかを、ちょっと詳しく書く。
筆者は、1987年4月、日立製作所に入社した。最初の配属先は、中央研究所。当時、半導体の世界では、成膜や微細加工に用いるプラズマによる半導体ダメージが問題視されていた。中央研究所で筆者が行った仕事は、半導体へのプラズマダメージの研究と、このようなプラズマダメージを与えない中性粒子を用いた半導体のドライエッチング装置の開発だった。
95年、日立・半導体事業部の武蔵工場に異動となった。半導体技術開発部のドライエッチング・グループに所属し、4~16MB・DRAMの生産技術と、強誘電体メモリー「FeRAM」の開発に関わった。
98年、日立・デバイス開発センターへ異動となった。プロセス開発部のドライエッチング・グループに所属し、従来のAl配線に代わるCu配線加工技術の開発と、1GB・DRAM用微細加工技術の開発に関わった。
99年12月、日立とNECによるDRAM製造の合弁会社、エルピーダメモリ(設立当初は「NEC日立メモリ」という社名だった)が設立された。筆者は、2000年2月、プロセス開発部のドライエッチング・グループリーダーとして、エルピーダに出向した。
ちなみに、筆者はエルピーダ出向を志願した。しかし、後に聞いたところによれば、最初に出向した800人のうち、自ら志願した技術者は筆者しかいなかったという。
エルピーダでは、256MB・DRAMのドライエッチング技術開発の立ち上げと、12インチ最先端工場用ドライエッチング装置の選定に関わった。
2001年4月、今度は半導体先端テクノロジーズ(通称「セリート」)へ出向した。セリートは、半導体メーカー13社が設立した民間の半導体コンソーシアムである。セリートでは、主任研究員として、90~65nm(ナノミリ)プロセス用Cu配線技術の開発と、65nm用ドライエッチング技術の開発に関わった。
深刻な半導体不況の中で早期退職
2001年、ITバブルがはじけ、半導体業界は、極めて深刻な不況に陥った。その結果、日本半導体メーカーは、大規模なリストラを敢行した。日立で2万人、東芝で1万8800人、富士通で1万4600人、NECで4000人・・・、などである。筆者の所属する日立では、半導体関係部門に対して、「40歳以上、課長職以上は、全員、退職してもらいたい」という早期退職勧告がなされた(「責任を取れ」というのが、勧告の理由だった)。
たまたま、40歳で主任研究員(課長級)であった筆者は、都合3回の早期退職勧告を受けた。セリートに出向中であったことも災いしたかもしれない。なぜなら、日立においては、一旦、出向すると、日立本体に戻ることができないからだ。したがって、一度出向した社員は、出向を永遠に繰り返すのである。そのような出向社員は、日立本体からは、「顔が見えないゆえ、切りやすい社員」になるのだろう。
セリートでの技術開発の目的に疑問を抱いていたこともあり、やむを得ず、筆者は日立を早期退職する決断をした。しかし、退職するには、家族もあり家のローンもあることから、転職先を見つけなくてはならない。折しも深刻な半導体不況の最中であり、転職先を見つけるのは困難を極めた。20通以上の履歴書を送ったが、面接すらしてもらえない。
実は、30代の頃は、幾度となくヘッドハンティングを受けた経験があった。したがって、転職などは、その気になれば簡単なことだと思っていた。しかし、40歳の大台に乗った途端、日本企業は、ピシャリと門戸を閉ざすのである。このように苦戦するとは思ってもみなかった。
幸いにして23通目の履歴書を送った会社が、初めて面接に応じてくれ、その結果、この会社に転職することになった。そして、日立に辞表を提出しに行った。当時の部長に、辞表の入った封書を出したところ、「撤回はなしだよ」と、あっという間にもぎ取られてしまった。形式的な遺留すらなかった。
このようにして、2002年10月、16年半勤務した日立を早期退職することが決まった。
ここで、一言付け加えておきたい。筆者は、日立を早期退職したが、早期退職制度は使っていない。というより、使えなかった。予想以上に転職活動に時間がかかり過ぎてしまった結果、辞表を提出した時は、すでに早期退職制度の期間が(確か1週間ほど)過ぎてしまっていたのである。
もし、早期退職制度の期間中であったら、年俸の2倍程度の退職金(おそらく2500万円)を上乗せしてもらうことができたはずだ。しかし、早期退職制度の期間を過ぎてしまい、かつ、自己都合退職になってしまった結果、筆者の退職金は、100万円ちょっとになってしまった。このことにより、私は日立に2500万円以上の利益をもたらしているはずである。日立に、少しは感謝してもらってもいいのではないかと思う。
80%の世界シェアが一気に低下していったDRAM
日立入社から退職するまでを振り返ってみると、下の図に示すように、筆者は、日本のDRAMの凋落と共に、技術者人生を歩んでしまった。その間、日本のDRAMは一度も浮上することがなかった。

そして、日本がDRAMから撤退すると同時に、技術者としての終止符を打たれ、「技術者を辞めろ」ということになった。まさかこんなことになろうとは、日立に入社した時には全く予想し得なかった。
なぜ、日立は、そして日本半導体産業は凋落してしまったのか? なぜ、世界の80%のシェアを占めていたDRAMから撤退することになってしまったのか?
上記のような悲惨な技術者人生を歩んだからこそ、この問題を、技術の視点から解明したいと考えた。
幸運にも、筆者は、2003年10月から2008年3月まで、4年半の任期付きで、同志社大学に新設された技術・企業・国際競争力研究センターにて、上記課題を社会科学的に研究する機会を得た。研究を遂行する際、筆者の半導体技術者としての経歴は非常に有効であることが明らかになった。
第1に、筆者は、偶然にも、研究所、開発センター、量産工場、合弁会社、コンソーシアムと、半導体の全ての組織形態を経験した。技術者として考えた場合、職場を転々したことは決して幸福なことではなかった。しかし、半導体産業の社会科学研究をする上では、これ程有効なことはない。
もし、社会科学者が、上記組織を調査しようとしたら、数十年あっても不可能だろう。そのようなことを実体験できたことの意義は大きい。日本半導体産業の社会科学研究を遂行している最中に、「もしかしたら、これは、神が私に与えた運命なのではないか」とすら思った。
第2に、技術者である間、ずっと微細加工技術に従事していた。微細加工とは、半導体にとって、生命線となる技術である。筆者は、その最先端技術に従事し続けてきた。それは、筆者の血となり肉となった。半導体産業論を論じる上で、これは本質的に重要なことである。
第3に、エルピーダやセリートへの出向を通して、日立以外の人脈が、飛躍的に広がった。その間に、人生の師にも巡り合った。親友もできた。何より、分からないことがあれば、電話一本で気安く聞ける友人が多数できた。これは社会科学研究を行う上で極めて有効なことであり、また筆者の何にも代えがたい財産でもある。
拙著『日本「半導体」敗戦』は、このような研究成果の集積として誕生した。本連載では、拙著の内容に準拠しつつも、事情によって書けなかったこと、その時々の最新の話題なども盛り込んで、執筆していきたい。
筆者が、日本半導体産業の凋落を、最先端技術の現場にいながら目の当たりにしてきた者であることを知っていただきたく、あえて筆者の経歴を書かせていただいた。本連載が、日本半導体業界の復興のみならず、日本の諸産業の成長に少しでも寄与できれば、これにすぐる喜びはない。
(次回に続く)

