デンマークで日本の桜が満開に

デンマークの首都コペンハーゲンにあるビスペビアウ墓地で、花見をする人々(2018年4月20日撮影)。(c)AFP PHOTO / Ritzau Scanpix / Mads Claus Rasmussen〔AFPBB News

 11月22日 連休に接したウイークデーながら、13時から東京大学本郷キャンパスで開催予定の「FINTECH協創圏シンポジウム」(http://mitsishikawa.wixsite.com/musicmanufacture/15)に多数のお申込みをいただき、ありがとうございました。

 本番直前ですが、若干名、追加募集を実施しますので、上のリンクをご覧になってご興味の方は、gakugeifu@yahoo.co.jpまで、お名前と連絡先を明記のうえ、お申込みください。抽選のうえ、当選者には「e-ticket」をメールでお送りします。

 さて、上記のシンポジウムでも、金融を巡るシンプルな論理の徹底を議論する予定ですが、今回は、最近「問題だ」と指摘されている「さくらんぼ計算」を巡る問題を考えてみたいと思います。

さくらんぼ計算? 

 高度成長期に初等教育を受けた私にはもちろん、昭和末期~平成初期に小学校に通った、現在の子供たちの親世代にもなじみのない「さくらんぼ計算」なるものが、算数で足し算や引き算を習い始めたばかりの、今日の小学校1年生に課せられているというのです。

 で、それが「問題」だという。

 「子供たちをいたずらに混乱させるばかりの、とんでもない教育法である」といったクレームを最初に目にしたのですが・・・。

 非常に率直に言わせていただくと、そこで「問題だ」と言っている、親なのか先生なのか分かりませんが、大人の言い分があまりにも「トンデモ」であることに気づき、率直に衝撃を受けました。

 「さくらんぼ計算」問題は多分、「偽問題」で、むしろ本質的な問題は現在の子供たちを回りで見守る「親」や「教師」の側の算数観の

 「数学不在」「論理不在」にあるのでは? という感想を持ちました。

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 今回は読者からいろいろ、ご意見をいただくかもしれませんが、以下、率直に記してみたいと思います。

さくらんぼ計算とは何か?

 まず最初に「さくらんぼ計算」と、それを巡る「問題」のいくつかを確認してみましょう。

 どうやら「さくらんぼ計算」を巡る問題は相当錯雑としており(あえて言えば「錯乱」しており)、今回触れることができるのは、そのうちごくごく一部に過ぎないと思われることを、最初に記しておきたいと思います。

 さて、21世紀の小学1年生が直面する「さくらんぼ計算」とは何か?

 例えば 6+7= ?  という 小学1年生の足し算の課題があったとしましょう。

 6+7=13 なわけですが、この「13」という答えには「位取り」が出てくる。答えが10を超えるので、ヒト桁繰り上がらなければなりません。

 ここで6-7歳児が落ちこぼれないようにしよう、という工夫が必要ということになります。

 10の位という新しい概念を理解できない小学生向けに考案されたのが「さくらんぼ計算」であるらしい。

 どういうことか?

 数を2つに分けて「10のかたまり」を作ろう、というのが、この計算のポイントなのです。つまり図で示すなら、こんな具合に

 つまり「6を3と3に【さくらんぼ状】にわけて、片方の3と、残りの7を足して【10の塊】これと、のこった3を足して、答えは13」という計算法だというのです。

 さて、この「さくらんぼ計算」を巡る批判、いや非難と言ってもいいかもしれませんが、以下のような計算を巡ってなされているのを目にしました。

 すなわち同じ問題は以下のように解くことも可能になるわけです。

 そして、両者があると混乱するから、どっちか1つにしてくれ式のクレームを目にしました。

 本稿は、「それではダメなんだよ」というのが基本的な趣旨になります。

 「さくらんぼ計算」を問題視する大人の中には

 この2つの解法の「どっちがいいか?」といったことを巡って、あれこれ言う人がいるようです。

 つまり、最初の計算に慣れている子にとっては、2番目の計算は混乱するだけだから「やめてくれ」であるとか、自分は第1の計算で慣れているので、第2の計算が出てくると「正直言って気分悪い」とか「ザラッとした気持になった」とかの反応です。

 要するに、およそ数理とも論理とも関係のない、「自分にとって不快である」という意見が開陳されている。

 これはつまり、小学1年生の足し算ですから、子供に質問されると、親も教えるわけですが、そこでおよそ非論理的な生活習慣をなぞることで、子供も混乱し、自分も不快になっているというのが実情なのではないか?

 そういった感想を持ちました。

 例えば「最初の数を【さくらんぼ】に分けるのに統一してくれ」とか「統一するのはけしからん」といった議論を目にしましたが、そういう向きには、「こういう問題ならどうなの?」と問うことになるでしょう。

 以下、大人の指導者向けに正確に議論を進めるべく、中学で習う数学の言葉を使ってお話を進めましょう。

 足し算、つまり加算という演算には交換法則が成り立つので、6+7も7+6も答えは同じです。演算記号の前と後にある数字を入れ替えても、答えは変化しません。

 (ちなみに除算つまり割り算では交換法則が成立しないので 6÷7と7÷6は答えが一致しません)

 こういった、義務教育で教えているはずのシンプルだけれども厳密なロジックを、教室の先生も親も、徹底できていないように思います。

 小学1年生に「交換法則は無理」という意見がありそうですが、そんなことはありません。

 「バカ」と「カバ」では意味が違うでしょ、という教え方があります。

 小学校低学年程度の子供は、この程度の親父ギャグ以前でもゲラゲラ笑って、算数大好き、となついてくれるので、やりやすいですね。さらに別の説明として

 トイレに入って、男子なら「チャックを下す」という操作と「用を足す」という作業があると思います。あまり細かいプロセスは略しますが(苦笑)ざっくりと

 「チャックを下す」→「用を足す」

 さて、この順番を入れ替えて

 「用を足す」 → 「チャックを下す」

 では、どうなるか?

 後の祭となりますね。これではいけません・・・となります。

 どちらも、子供に教えれば、キャッキャと喜んで瞬時に理解します。要するに教える側の問題だと断じて構いません。

 ちなみに「トイレに入る」「チャックを下す」は、大学生向けに量子力学という科目を教えるとき、演算の非可換性を教授する例として私自身が東大生向けに普通に使ってきた例にほかなりません。

 さて、トイレから「さくらんぼ」に話を戻しますと

 小学1年生の子供は、上に示した「2つの解法」があることで「混乱」する、というのですね。これがいけません。

 そこで「さくらんぼ」表示をやめて、きちんとした数の式で記すことにしましょう。すなわち、第1の計算は

 元の式と、6=3+3 という式、2つを連立しているわけです。第1の式は未知数がある方程式、第2の式は常に成り立つので恒等式といいます。

 恒等式は常に成立するので、随時、様々な条件と連立することができます。

 高等学校の数学では、こういう計算テクニックを駆使する例が、因数分解でも不定積分でも<難問>とされる傾向があり、決してバカにはできません。

 この両者を連立すると、第1の「さくらんぼ計算」は以下のように書くことができます。

 これに対して第2の「さくらんぼ計算」は

 この両者を連立して

 このように解いている。演算としては、実は完全に同じことをしていますが、ポイントとしては、違う道順で解いている。ここがポイントになるでしょう。

 つまり別解を得ているわけです。別の方法で解いているということは、とりもなおさず、両者が一致することで「確かめ算」つまり「検算」ができている。

 ここに到達すると、単なる算術から数学へと歩みを進める第一歩にたどり着くことになります。

伊東先生の「さくらんぼ検算のススメ」

 ということで、状況が整理できました。つまり、上で色をつけた数式に関して言うなら、赤の道筋と青の道筋、2つの異なる計算で得られた結果が一致することで、計算が正しいという確かめ算が成立していることが分かりました。

 「さくらんぼ計算」は、たぶん教室で子供を指導する途上から生まれたのであろう、ステキな工夫です。

 しかし、その使い方が拙劣だと、子供を混乱させることになりかねない。すべては、指導者が拙劣かどうか、だけにかかっていると言うべきでしょう。

 私は「さくらんぼ計算」を、理想的には、最初から「さくらんぼ検算」として使用することで、1年生の1学期から数学感覚をつけさせる、恰好の教材になるように思います。

 言葉で書くと論理が分かりにくいですから、簡単に式で記すなら

 ポイントは、最初から

 「さくらんぼちゃんは2つ(以上)ある」という基本事実を徹底することで、論理の構造と論理操作を小学1年前期から教えることにあると思います。

 この問題は、思うよりよほど根が深く、また数学の手技としては「telescoping(テレスコーピング)」と呼ばれる方法の初学者版になっているので、もう数回、紙幅を使ってきちんと議論したいと思います。

 かつて徳川家康は「百姓は生かさぬように、殺さぬように」と語った、と江戸時代の兵法家大道寺友山は「落穂集」で伝えています。

 その真意は、解釈が分かれるところかと思いますが、日本社会で一般庶民が身に着けるべき学問を「読み書きそろばん」に限定するというのは、典型的な「生かさぬように」の施策と言うべきでしょう。

 税金を搾り取られる高を理解させる、というだけの知性で停滞する可能性が非常に高いと思います。

 小学1年生向けにクイズよろしく、数の計算を一通りだけ教えるということに、私は強い疑問を持ちます。

 一通り計算しても合っているかどうか分からない。「先生がマルをつけるか否か、あるいは模範解答と一致しているかどうか?」であれば、すでにそこには論理科学としての数学の品位は存在しません。

 「数学の本質はその自由にある」というのは、集合論の始祖ゲオルグ・カントールの言葉です。ユダヤ系の出自で様々な冷遇にも接したカントールが、自律的なルール以外のすべてが自由である数理の美しさを端的に語ったものだと思います。

 自分で出した答えが正しいか、怪しいか、自分自身で判断できるようになってこそ「百姓」は自立して生きる「ジェントリ」や「ユンカー」となって歴史を切り開いていけるようになるわけです。

 小学1年最初の時点で「さくらんぼ検算」型の論理の自律性と美しさを教えることができれば何よりと思います。

 ちなみに私は小学1年の1学期に、父親から手書きの九九の表を使って、算数は暗記の必要がほとんどないこと、「2×9=9×2」などの交換法則と対称性など、数理の美しさを教えてもらったことが決定的でした。

 1学期の終わる7月12日に入院した父は、転移性肺がんでそのまま生きて帰宅することがありませんでした。

 しかし、40数年経っても私の中にはヒト桁の数の演算挙動が示す美しさが、その先の高度な理論すべての原点としてハッキリ感じられます。

 大切な論点と思いますので、引き続き取り上げたいと思います。

(つづく)