晩年の徳川慶喜。写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(11)「徳川慶喜①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65801
渋沢栄一と時代を生きた人々(12)「徳川慶喜②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65802
渋沢栄一と時代を生きた人々(13)「徳川慶喜③」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65834
渋沢栄一と時代を生きた人々(14)「徳川慶喜④」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65835
渋沢栄一と時代を生きた人々(15)「徳川慶喜⑤」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65934

大政奉還と慶喜の決断の背景

 慶応3年(1867)5月の四侯会議後、薩摩藩は小松帯刀を中心に、西郷隆盛・大久保利通が藩を代表して、長州藩との連携による武力発動路線(「小松・木戸覚書」、いわゆる薩長同盟)による周旋を開始した。しかし、薩摩藩内の反対意見もあり、その後、土佐藩との連携による大政奉還路線(「薩土盟約」)に切り替え、土佐藩参政の後藤象二郎の率兵上京に期待した。さらに、土佐藩が率兵上京を見合わせたことから、薩摩藩の大政奉還前の挙兵、いわゆる江戸・大坂・京都での三都挙兵計画を画策するに至った。

 しかし、ここでも薩摩藩内の反対意見から、薩摩藩兵の出発が遅れ、長州藩は「失機改図」(戦略見直し・出兵延期)に方針を転換したため、三都挙兵計画は頓挫したのだ。薩摩藩は当面の策として、土佐藩が提唱する大政奉還および将軍職辞職を実現し、その先の諸侯会議による武力を伴わない廃幕路線に再度方針を転換した。徳川慶喜は、こうした挙兵計画を察知し、また上方での軍事的不利、フランスからの借款不成立なども相まって、土佐藩・山内容堂の大政奉還建白の受諾に傾斜した。

 最終決断の背景には、大政奉還後も政治組織・財政基盤がない朝廷に代わって、慶喜が政治を執れる見通しがあった。なお、慶喜の懐刀である西周の徳川家中心の政体案「議題草案」によると、西洋官制にならう三権分立を企図し、将軍(大統領)が行政権を掌握して、司法権を便宜上は各藩に委ねるとしている。

 また、立法権の確立のため、各藩大名および藩士により構成される議政院を設置し、天皇は象徴的な地位に止まると規定しており、慶喜が新政体をかなり具体的に考えていたことがうかがえる。

 10月12日、慶喜は大小目付や諸有司など幕府要人を集め、政権奉還の書付を提示した。翌13日には二条城大広間に10万石以上の諸藩重臣を集め、板倉勝静が大政奉還上表の諮問案を廻覧した。その後、直々に意見するために土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀らが慶喜に拝謁したが、小松は慶喜に大政奉還の賛成を表明した。

邨田丹陵『大政奉還図』聖徳記念絵画館蔵

 翌14日に慶喜は大政奉還を奏請し、15日に勅許を獲得した。ここに、江戸幕府は理論的には日本政府の座を朝廷に明け渡したことになる。なお、24日に慶喜は将軍辞職を奏請したが、朝廷は勅許を拒否した。この段階でも、実質的には幕府は朝廷に代わって、政治を代行していたことになる。