DMZのそばにあるチェックポイント(写真:Abaca/アフロ)

 韓国人男性であれば誰もが体験する軍隊での服務経験。筆者の朴車運氏も、1990年代後半、21歳の時に軍服務を経験している。その2年2カ月の過酷な体験を振り返る最終回。今回は南北の非武装地帯(DMZ)の警備を担当した時の経験について

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(朴 車運:ジャーナリスト)

 映画「JSA」や「愛の不時着」では、板門店にある共同警備区域(JSA)において韓国と北朝鮮の軍人が交流する姿が描かれるが、これは創作に過ぎない。南北の非武装地帯(DMZ)と隣接しているJSAで、韓国人と北朝鮮人が交流することはない。

 軍隊を経験した人たちにも、JSAとDMZの実態はほとんど知られていない。北朝鮮と対峙する特殊性から勤務する人が限られるからだ。

 1999年はいろいろな事件があった。金大中元大統領が太陽政策を行い、ノーベル平和賞を受ける準備を進めていた。軍隊でも太陽政策に関する教育があり、特に3大原則の「北朝鮮の武力挑発を許さない」について集中的な教育がなされた。同年、第1延坪海戦が発生して北朝鮮軍の銃撃で韓国軍人の命が奪われたため軍隊内の雰囲気は険悪だったが、交戦規則の改正で反撃できなかった。

 筆者は、一等兵に進級して部隊生活に慣れた頃、ガールフレンドからの別れの知らせと1枚の派遣命令書を受け取った。筆者が所属した工兵部隊はその特性から多くの部隊員が外部に派遣されていた。転入後すぐに派遣され、除隊前日に帰隊する人もいる。

 筆者が受けた派遣命令は複雑だった。まずは部隊を離れて、京畿道の某所にある教育隊で6週間の教育を受けなければならなかった。悪辣な全羅南道出身の先任兵から解放される喜びと、慣れたところを離れる残念な気持ちが交錯した。

 14泊15日の一等兵長期休暇から復帰した数日後、部隊を離れて京畿道某所にある特殊戦学校に到着した。空輸隊や捜索隊、海外から来た軍人など、1%未満の特殊兵科を持つ軍人たちが訓練を受ける場所だった。

 到着後は3日間にわたって厳しい身元照会とIQ検査、人格検査、身体検査、体力測定を受けた。身元照会は一週間ほどかかった。

 さらに、爆破、危険物取扱法、いろいろな種類の地雷解体と組み立て、応急措置、射撃、遊撃、精神教育、交戦規則、読図法、基礎工数、生存訓練などさまざまな教育を受けた。ちなみに、生存訓練とは、食べ物がない状況で野生動物や野生植物を採集したり、身を隠すシェルターを作ったり、雨水を蒸留して飲み水を作ったという文字通りの生存訓練だ。ここでは階級や名前は使用しない。筆者だけでなく、一緒に教育を受けた人間も同じだった。