江戸城の本丸に残る家康時代の石垣。戦国時代の江戸城は土造りだったが、家康はこの城を本格的な石垣造りの城に築き直していった。撮影/西股 総生(以下クレジットのないものは同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

遠隔地に移された有力武将たち

 1590年(天正18)、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を関東に封じた。徳川氏の本領は三河だったが、長年にわたる家康の努力によって、この頃には遠江・駿河・甲斐と領地を広げていた。したがって、秀吉は家康と家臣たちに、慣れ親しんだ土地を離れて、遠い国に〝転勤〟するよう命じたことになる。

石垣山城から見た相模湾。豊臣秀吉が小田原攻めの本営として築いたのが石垣山城。秀吉は、このような景色を眺めながら、家康に関東への国替えを命じたのだろう。

 もともと、秀吉は織田信長の家臣、家康は信長の同盟者(格下の)だった。信長の横死後に両者は対立し、1584年(天正12)の小牧・長久手合戦で干戈を交えたものの、結局は家康が政治的に屈する形となった。家康の関東転封は、その6年後であるため、秀吉が家康を遠ざけた、と考える人が多い。

家康は浜松城を本拠として東海地方に領地を広げ、豊臣秀吉と小牧・長久手で戦うことになる。写真の天守は第2次大戦後にコンクリートで造られたものだが、石垣は徳川家康時代の貴重なもの。

 家康と同じように、秀吉から遠隔地に移された大名に、佐々成政蒲生氏郷がある。佐々成政は、もともと織田家中で秀吉とは同僚だったが、柴田勝家の配下として北陸で戦うようになる。ところが、勝家が秀吉に滅ぼされ、小牧・長久手の合戦が起きると、成政は家康と通じて、秀吉にそむくこととなった。

佐々成政像(Wikipediaより)

 1587年(天正15)に、秀吉が九州を征服すると、成政は肥後に封じられる。ところが、肥後の国衆(地ばえの領主)たちが叛乱を起こし、成政は統治失敗を責められて、自害に追い込まれた。佐々成政も家康と同じく、秀吉に逆らったために僻地に飛ばされたように考えられている。

蒲生氏郷像(Wikipediaより)

 一方の蒲生氏郷は、やはり織田家中出身。秀吉に仕えて伊勢松坂を領し、将来を嘱望されていた。小田原の役ののち、氏郷は会津に封じられ、5年後に40才で病死。跡をついだ秀行は、石高を1/5に減らされて宇都宮に移され、会津には上杉景勝が入った。氏郷の会津転封については、秀吉が彼の力量を恐れたため、といわれることが多い。

 では、彼らの転封は、はたして権力者の思惑による左遷人事だったのだろうか?

 まず、原理原則論で考えてみよう。中世~戦国時代の武家社会では、戦争が起きた場合、敵にいちばん近いところに領地を持っている者が、先鋒に任ずるのが習わしだった。領地が隣どうしなら土地鑑もあるし、軍団の編成や行軍序列を考えても、この原則は理にかなっている。

 もう少しナマナマしい話をするなら、領地を接している者どうしは、ふだんから交流がある。だから、戦争になったときには、自分はもう敵に通じていませんよ、ということを主君に証明してみせるため、先陣を切って戦う必要があった。

 家康の場合、この原則がズバリ当てはまる。当時の徳川領は、三河・遠江・駿河・甲斐だから、関東を領する北条氏とは隣どうしだ。しかも、家康は一度、北条氏と戦って和睦した際、娘を北条氏直に嫁がせている。こうした関係から、豊臣政権と北条氏側との外交交渉では、窓口となってきた。

山中城の西ノ丸。小田原攻めの緒戦で豊臣軍が猛攻を仕掛けて陥落させた。徳川軍は、この写真の奥から手前に向かって攻め寄せた。

 その外交交渉が決裂し開戦にいたったとなれば、家康は当然、先鋒を務めなければならない。しかも家康は、数年前の小牧・長久手合戦では、秀吉と戦っているわけだから、秀吉からすれば、「おい家康、今度は根性見せろや」ということになる。(後編に続く)

 

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