これは地方の小さな「弁当屋」を大手コンビニチェーンに弁当を供給する一大産業に育てた男の物語である。登場人物は仮名だが、ストーリーは事実に基づいている(毎週月曜日連載中)。

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昭和55年~56年:33歳~34歳

(俺は、好きな仕事を捨ててまで、何のために広島に帰って来たのだろう?)

 恭平は、自問自答を繰り返した。

(親父をラクにさせ、弟を一人前にするためだ!)

 綺麗事ではなく、誓って本心から、そう決意して、恭平は帰って来たはずだった。だのに、当の父と弟に改革の邪魔をされている理不尽さに、強いジレンマを覚えていた。

 親子だから、兄弟だから、話し合え、理解し合えると思い込んでいた。でも、そう考えていた恭平自身に、甘えがあったのかも知れない。

 父とか弟とか言った肉親への情や甘えを捨て、100%ビジネスライクに、抜本的に仕事を考え直してみようと、恭平は何度も深呼吸を繰り返した。 

 そもそも、恭平の父が弁当会社を始めた経緯は、広島市内の大手弁当会社「万鶴」の大泉社長に請われ、副社長に就任したことに端を発する。それから10年近くの経験を経た後、父は大泉社長の下から独立し、「ひろしま食品」を興した。

 万鶴の大泉社長は、恭平の父より1歳年下だった。二人は、酒飲みと下戸…艶福家と石部金吉…洒脱者と不器用者…群れ集う人と孤高を気取る人…行動や自己表現は見事に対照的だったが、性格は案外に似通っており、共にシャイで寂しがり屋のアイデアマンだった。

 恭平が東京から帰って来た1年前、万鶴は市内中心部から車で20分の距離に造成された新しい工業団地の一画に、1000坪の敷地を取得し800坪の工場を新築していた。そして、中心部近くにあった300坪程の旧工場は遊休状態だった。

 店舗経営から撤退するにしても、いきなりの売上低下は間違いなく資金ショートを招く。さらに給食弁当の拡大を図ろうにも、現在の工場では生産も配送もキャパが不足する。

 これを解決するには、給食の売上を一気に伸ばしながらの工場の移転しかないと考えた恭平は、万鶴の旧工場を借り受けての業務拡張を想い描き始めた。