6月24日、モスクワの赤の広場で行われた対独戦勝75周年を記念した軍事パレードに参加したプーチン大統領。向かって左はセルゲイ・ショイグ国防相(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

(亀山 陽司:著述家、元外交官)

 6月18日、ロシアのプーチン大統領が米国のメディア『ナショナル・インタレスト』に「第二次世界大戦75周年の真の教訓」と題する論文を投稿した。印刷すると20枚を超える「大作」である。同じものが翌19日、ロシア語でも公開されたが、こちらは「戦勝75年:歴史と未来に対する共通の責任」と題されている。

(外部リンク)スプートニク日本語版
https://jp.sputniknews.com/75-victory/202006247563513/

 この記事は主に二つの点で注目に値する。一つは、第二次世界大戦の勃発の経緯についてEU諸国とロシアとが互いに責任を押し付けあう歴史戦という観点、もう一つは、混迷する世界における世界秩序をロシアがどう考えているかという観点である。

「ナチスへの宥和政策が第二次大戦の端緒」

 第一の歴史戦の観点から見ていこう。この記事で、プーチン大統領は、第二次世界大戦が勃発した経緯を詳細にたどりながら、大戦の直接の原因を作ったのは1939年8月のナチスドイツとソビエト連邦の間の不可侵条約および秘密議定書(モロトフ・リッベントロップ協定)ではなく、その前年の英仏による対独宥和政策、いわゆるミュンヘン協定(1938年9月)であると主張している。

 ひと言で言えば、この論文は、欧州大戦に関するEUとロシアとの歴史論争についての、プーチン大統領自らによるロシア側の公式見解に他ならない。

 1930年代は、世界大恐慌の中、第一次世界大戦で敗戦したドイツが、ヒトラーという指導者を得て国力を拡大し、第一次世界大戦後の欧州の秩序(ベルサイユ体制)における不安定要因となりつつあった時期である。一方、第一次大戦末期のロシア革命により成立した新しい国家であるソビエト連邦が、スターリンの下で共産主義国家として精力的に国家を建設していた時期でもある。

 ちなみに英国の外交官であり政治学者であるE.H.カーは、『危機の二十年 1919-1939』という本の中で30年代について「前半の10年(註・1920年代)に夢みられた期待が、後半10年(註・30年代)のわびしい諦めへ変転し」たと述べている。つまり、世界は第一次世界大戦後の平和への期待を打ち砕かれ、再びパワーポリティクスが支配する場へと戻ってきたというのである。

 プーチン大統領は、まさにこの危機の時代の1938年、ヒトラーがチェコスロバキアのズデーテン地方を併合することを許容したミュンヘン協定こそが第二次世界大戦への道を開いたと主張し、翌1939年にソ連がドイツとの間で、不可侵条約、いわゆるモロトフ・リッベントロップ協定を締結したことは、ドイツからの脅威を受けていたソ連としてやむを得ないものだったとのトーンで論じている。ちなみに、チャーチルは第二次世界大戦に関する回顧録において、当時のソ連の政策は冷血ではあったが、同時に高度に現実的でもあったと述べている。

 しかし、なぜ、一国の首脳であるプーチン大統領がいまさら第二次世界大戦に関する歴史認識を議論するのか。それには理由がある。