福島県の「浜通り」には、厳しい風土の中で幾多の災厄を乗り越えて、コメの収穫を守り続けてきた歴史がある。その農業は現代になり、多種多様な野菜や果物の収穫という形で発展を遂げてきた。

 歴史ある浜通りの農業に、今、未曾有の危機が訪れている。放射性物質という、まったく体験しなかった見えない物質が、田畑の土に降り注いでいる。放射性物質と土壌の関係を見続けてきた研究者の目に、今の状況はどのように映っているのだろうか。

災厄のたびに立ち上がってきた「浜通り」の農業

 福島県には、西から順に「会津」「中通り」「浜通り」と呼ばれる地域がある。南北に連なる奥羽山地、それに阿武隈山地を境に、各地域で風土が大きく異なるため、3つの地域に分けてこう呼ぶのだ。

 浜通りでは、江戸時代、相馬中村藩の下で農民たちが稲作に励んでいた。だが、この地域は夏場、太平洋岸に「やませ」と呼ばれる冷たい風が吹きやすく、会津や中通りに比べて収穫は不安定になりやすい。

 相馬中村藩の農民たちが過去に経験した厄災が、次のように語り継がれている。

 第3代藩主・相馬忠胤の時代、藩内の石高は10万石を超えていた。ところが、1755(宝暦5)年に冷害が起き、凶作被害は4万6000石にもなり、「施粥」と呼ばれる粥の施しを受けた人は2万3994人。

 追いうちをかけるように、その後も冷害が繰り返される。1781~1789年の天明年間には「天明の大飢饉」として知られる冷害が浜通りを襲った。特に天明3年には、浅間山大噴火の影響による冷害がひどく、餓死者は天明4年半ばまでで8500人に達したとされている。

 減った相馬藩の人口を回復させるため、他国からの移民を募ろうと、こんな歌が作られ、歌われた。

 「相馬相馬と木萱(きかや)もなびく なびく木萱に花が咲く おれと行かねか相馬の浜に・・・」(「相馬二遍返し」)

 幾度とない憂き目に遭いつつも、浜通りの農民たちはその度に立ち上がり、農業を守り続けてきた。