敗戦後の日本を襲ったさまざまな「危機」。それらの危機はいかにして起こり、日本はどのように対応したのか。敗戦後から朝鮮戦争に至る空白の戦後史を、インテリジェンスに関わる歴史研究を踏まえて、評論家の江崎道朗氏が明らかにする。全2回。(JBpress)

※本稿は『朝鮮戦争と日本・台湾「侵略」工作』(江崎道朗著、PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

スターリンの思惑

 中国共産党が台湾「解放」(軍事侵攻と併合という意味)の準備に奔走していた1949年4月、モスクワでは金日成が「北朝鮮による韓国攻撃によって南(韓国)では、韓国の共産主義者たちが蜂起し、ごく短期間で容易に南(韓国)を制圧できる」などと主張し、スターリンから「朝鮮統一」の許可をもらっていた。

 ゴンチャロフ氏らは、スターリンには、次の四つの思惑があったと分析している。

1、朝鮮半島全体を共産圏に入れることにより、ソ連の安全保障のための緩衝地帯を拡大する
2、来るべき大戦に備えて日本攻撃の橋頭堡(きょうとうほ)を確保する
3、米中間に楔を打ち込む
4、アメリカ軍を欧州から離れたところに釘付けにする

 スターリンにとって朝鮮戦争は「来るべき大戦に備えて日本攻撃の橋頭堡(足場)を確保する」という意味合いがあったことは、記憶に留めておくべきだろう。

 スターリンは金日成の要請に応え、その後2カ月間で北朝鮮軍を大増強したほか、ソ連軍の将校に命じて作戦計画を作らせた。その結果、開戦時の北朝鮮の戦力は、兵員と火砲が韓国の2倍、重機関銃7倍、戦車6.5倍、航空機6倍に達した。

 作戦計画を作ったソ連軍将校らは、進軍速度1日あたり15~20キロで、22~27日以内に勝利できると見積っていた。

 一方、毛沢東は、台湾「解放」計画に没頭していた。台湾対岸に兵力を集めるのに予想外に手間取ったため、6月初め、中央軍事委員会は台湾攻撃を1951年夏に延期したが、本土と台湾の中間にある重要な島の攻略は進める計画だった。