1890(明治23)年7月に行われた第1回衆議院議員選挙は、小選挙区制である。制度設計に当たった法制局は、有権者が候補者の「人物」を直に見て、直に話を聞けるという物理的な範囲を重視した。イギリスの例を参考にしながら、人口12万人に1人という定員を基準とし、18万人を超えると定員を2人に増やした。

 この計算で割り振ると、1人区が214、2人区が43、合計257区で、300人という定数になった。法制局の原案を枢密院で審議した結果の数字だが、定数が300という丸い数字になったのはあくまで偶然である。

 犬養の選挙区は、岡山3区。実家のある賀陽(かよう)郡や窪屋など4つの郡を合わせた地区だ。現在の岡山市の西方と倉敷市、総社(そうじゃ)市の一部地域にあたる。選挙人は15円以上の国税を納める25歳以上の男子という制限があり、有権者は2304人。

「全国知名度」と「地元の利益」、どちらを選ぶか?

 岡山3区からは、犬養の他に倉敷地区から林醇平(はやしじゅんぺい)が立候補した。倉敷紡績の設立に尽力した県議会議員だ。他にも何人か立ったが、実質は犬養と林の一騎打ちだ。剣持によると地元では、

「犬養は何ぶん東京で活躍しとる人じゃから、心易う話をするような訳には参らん。林は公開の席で物を言うには犬養の傍にも寄れまいが、地元の者じゃから至極便利じゃ。使い勝手のよい林を担ごう」

 という話が持ち上がり、地元の利益代表として林醇平が担がれた。長く故郷を留守にしていた犬養は、なかなか馴染みの候補者とは思ってもらえない。この日も、朝から遊説に出かけ、夕方近くになってようやく家に戻った。

 靴底はすっかり擦り減り、顔は日に焼けて真っ黒だ。井戸端の水を頭から浴びて、火照った身体を冷やした。初夏の太陽も傾き始めたが、備中(びっちゅう)の刺すような白い日差しは東京のそれより何倍も厳しい。うるさいくらいの蟬の鳴き声が一層、暑苦しさを増す。

 連日、故郷を回っていると人々の暮らしぶりが手に取るように分かる。秋田でも感じたが、東京と地方はまるで別世界だ。西南戦争の後に政府が始めた物価の収縮政策で、米や繭(まゆ)の値段は暴落し、農家はどこも苦しい。耳にする言葉は日々の窮状を訴えるものばかりだ。それなのに政府はさらに徴税を強めようとしている。