オリヴァー・クロムウェルの肖像画

 オリヴァー・クロムウェル(1599〜1658)と言えば、ピューリタン革命の立役者ですが、実はイギリス史ではあまり人気がない人物です。下院議員だったクロムウェルは、ピューリタン革命で王党派と対立する議会派に属し、「鉄騎隊」を率い軍事司令官として名を上げます。劣勢を跳ね返して王党派に勝利したクロムウェルらは、議会派内の多数派で、王室との妥協を図ろうとする長老派を追放、軟禁していた国王・チャールズ1世を処刑してしまいます。こうして王政が途絶え、イングランド共和国が樹立されると、クロムウェルは王に変わる国家元首「護国卿」に就任、以後、独裁体制を敷いていきます。

 しかし、クロムウェルが亡くなると、その死からわずか2年後、チャールズ1世の息子・チャールズ2世によって王政復古がなされ、彼は「反逆者」として断罪されてしまいます。墓は暴かれ、遺体はバラバラに切断され、鉄の棒に突き刺されたクロムウェルの首は、24年間もロンドンで晒しものにされたと言われています。

 そして現代――。クロムウェルについては、その功績を積極的に評価する人と、「王殺し」の独裁者としての批判的に評価する人とに分かれています。ハッキリ言えば、あまり評判が良くないのです。

 ただこれだけは言えます。クロムウェルがいなければ、その後のイギリスの発展はかなり遅れていたはずです。それは、彼がその後のイギリス発展の原動力となる航海法と消費税を導入したからなのです。

ピューリタン革命

 エリザベス1世(在位:1558〜1603年)は、イギリス史上もっとも有名な国王と言えるでしょう。彼女の治世でイギリスは近代国家としての歩みを始めます。イングランド国教会体制を中心とした、中央集権制国家を形成しようとしました。

 生涯独身を貫いたエリザベス1世には子どもがいませんでした。そこで、彼女の王位継承者とされたのが、エリザベス1世の祖父・ヘンリ7世の血を引くスコットランド王のジェームズ6世でした。エリザベス1世の死後、彼がイングランド王ジェームズ1世(在位:1603〜1625年)として即位したのです。

 こうしてステュアート朝を開いたジェームズ1世は、イングランド国教会の権力を強化することに専念しました。イングランド国教会はカトリック(旧教)ではありませんが、カトリック的な側面を残していました。これに反対していたのがカルヴァンの教えに忠実なピューリタンと呼ばれる人々でした。

 ジェームズ1世は彼らに弾圧を加えたので、一部のピューリタンは、信仰の自由を求めて新世界アメリカに渡りました。そのため、アメリカにビューリタニズムが根付くことになったのです。