「人の干物」・・・、なんとも、言い得て妙ですが、彼らが衝撃を受けたその「干物」が、いったいどんなものだったのか? どうしてもこの目で見たくなった私は、3年前、実際にワシントンのスミソニアン博物館まで足を運び、見に行ってきました。

 それが、この写真です(*写真が掲載されていない場合は、JBpressのページhttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55853でご覧いただけます)。

スミソニアン博物館に収蔵されているミイラ(筆者撮影)

 日本でも座禅したままミイラになった高僧はいたはずですが、このように横たわったミイラが展示され、多くの人の目に触れるということ自体、当時の彼らにはその意味がとっさに理解できなかったのでしょう。

スミソニアン博物館にあった「ニッポンコーナー」

 当時31歳だった佐野鼎も、スミソニアン博物館で受けた衝撃は相当なものだったようです。彼が書き記した「訪米日記」1860年4月2日(旧暦)の記述からも、一部抜粋してみたいと思います。

『家(*筆者注:博物館の建物のこと)の中には戸棚の如きものを数か所に置き、これに玻璃板(*筆者注:ガラス板のこと)を張りたる障子を開閉すべく設く。その中には鳥獣魚亀等凡て奇珍なるものを、或いは肉を抜き乾かし、または焼酎漬けなどにし、硝子瓶に入れ、また大いなるものは戸棚を設けて其の中に置き、玻璃障子を以て閉しなどするなり』

 展示物を陳列しているガラスのショーケースを「玻璃障子」(はりしょうじ)と表現しているところあたりは、なるほどと感服してしまいます。

使節団の一員、木村鉄太が描いたスミソニアン博物館(『航米記 肥後藩士木村鉄太の世界一周記』より)

 こんな一説もありました。

『又一棚あり。悉(ことごと)く我が邦の物品のみを置き、先年水師提督ペルリに賜りたる無紋の熨斗目、婦人の打掛、白無垢の下着等、衣類の類を多く集む。又他の一所に刀剣等の類を集め、長刀、白鞘の新身、其の外農具の内鍬(くわ)、鋤(すき)などこれあり』

 どうやら、当時のスミソニアン博物館には、「ニッポンコーナー」が設けられていたようですね。ここには、ペリーが来日した際に、幕府側から贈られた品々の他、日本刀や農民が使用する農機具などが展示されていたことがわかります。

 そして最後に、佐野鼎は友人が「見世物小屋のようだ」と評したこの場所について、次のように考察しています。

『天下万国の奇珍異物ここに集簇す。何の為なるやを考ふる能わず(*筆者注・考えることができない)。按ずるに、諸物を多く集めて民衆に示し、人の識見を広からしむものならんか』

 何のためにこのような展示がなされているのかがわからない・・・としながらも、さすがに、博物館の目的についての推理はしっかりと的を射ていることがわかります。

 佐野鼎は、この場所へ来ればさまざまな動植物、科学、歴史、芸術、文化に触れることができ、誰もが平等に、多くのことを学べる、その目的と重要性を理解していたのです。

 明治維新の8年前、すでにアメリカでこうした文化的な施設や先進的な学校の視察を重ねていた佐野鼎は、徐々に教育の大切さを知り、西洋砲術、つまり戦の専門家である自分の人生に漠然とした疑問を抱くようになりました。

 維新後、佐野鼎が明治新政府での官職を捨てることを決意し、現在の開成学園の前身である「共立学校」を創立したのは、1871年(明治4年)。ワシントンでスミソニアン博物館を見学してから、わずか11年後のことでした。