赤ん坊は言葉が通じないから、言葉を教えようがない。どうやって歩くかも教えることができない。子ども自身が試行錯誤し、「できない」を「できる」に変えていくしかない。大人は、いつかできるようになってほしいと願いつつも、もし病気になっては、など、不安で一杯。ひたすら祈るような気持ちだ。「できて当たり前」なんて、思わない。「期待」していない。ひたすら、祈っている。

 だから、言葉を話したり立ったりしたとき、驚く。そうなるだろうと信じ、だけどもしかしたらと不安に思いながら、ずっと祈っていたら、話した! 歩いた! できることがひとつ増えるたび、手を叩いて喜ぶ。その「驚き」と、喜ぶさまが、子どもの学習意欲に火をつける。

金八先生と鮑叔の「信頼」

『3年B組金八先生』に、次のようなセリフがある。

「裏切られても裏切られても信じてやること、信じ切ってやること」

 私は、このセリフに衝撃を受けた。なぜなら、友人がこう愚痴っている言葉を何度か耳にしたことがあるからだ。

「あいつのこと、信じていたのに、裏切られた」

 あれ? と思った。友人は、信じていたのに、それとは逆の行動をされて、裏切られたと感じ、その人物のことを恨むようになった。「信じていたのに裏切られた」という言葉は、そう珍しい言葉ではない。信じる場合は、裏切られないという「期待」が潜んでいるわけだ。

 ところが金八先生の言葉では、「裏切られても信じる」という。裏切られたら、普通は信じられなくなるはずなのに、なぜ裏切られたのに信じることができるのだろう? 「信じる」とはなんだろう? 私の名前も「信」という字なので、ずっと考え続けていた。

 すると、中国の故事に出会ったことで、整理することができた。「管鮑の交わり」で有名な話だ。