開校当時は2割が女子生徒だった

 さて、開成学園は、実は男女共学だった、という本題に入りましょう。

 共立学校と佐野鼎の居宅が建てられていた場所は、現在のJR御茶ノ水駅のすぐそばで、もともとは福山藩の上屋敷でした。佐野鼎はアメリカ訪問時に初めて知った「カンパニー」方式で出資者を集め、版籍奉還によって新政府に上納され、官有地となっていたその土地を購入し、本格的な学校を創設したのです。

 当時の校舎は、文明開化を象徴するかのような白い西洋風の建物で、正面玄関の真上にはバルコニーがしつらえられていました。武家屋敷の築地塀がまだ残っていたこの界隈では、おそらくひときわ目を引いていたにちがいありません。ちなみに、日本初の鉄道が、品川~横浜間で仮開通し、客車をつないだ蒸気機関車が、片道24日キロの道のりを1日2往復するようになったのはちょうどこの頃のことです。

 開校の2年後(明治6年)には、生徒総数159名、そのうち女子は33名で、5歳くらいの幼い女の子たちも男子とともに学んでいたという記録が残っています。
クラスは、15歳以下の男女共学の幼年校、16歳以上の男子のみが在籍する青年校、漢学と筆学のみを学ぶ幼年組の3つに分けられていました。修業時間は、基本的に1日6時間で、英学のほか、漢学、筆学、算学にも力を入れ、朝の9時から3科目、昼は12時から1時間半の昼食と運動の休息時間を取り、その後、夕方4時半まで3科目をこなし、土曜日だけは通常授業の半課。休日は、日曜日と天長節(天皇誕生日)、年始、盆暮れと決められていました。

 今の開成学園のように、難関の入学試験はありませんでしたが、進級試験はちゃんとあったようです。学年ごとに毎月の小試験、四季ごとの大試験が行われ、生徒の等級はその成績によって1等級から10等級に分けられます。そして、1等級まで進んだ者は、任意で専門の学校へ進むことができるのです。

 佐野鼎の息子である絃之介(当時8歳)も、娘の操(当時5歳)も、共立学校の生徒でした。5歳と言えば、今でいう幼稚園か保育園の年齢ですが、アメリカやヨーロッパの教育システムをつぶさに見学していた佐野鼎は、身分や財力、性別、障害の有無にとらわれぬ欧米の教育制度や学校の在り方に深い感銘を受け、男女問わず、幼児期からの総合的な教育が大切だという信念を持っていたのです。

外人に通じる「正則英語」を英語教育のモットーに

 幕府直轄の教育施設であった「昌平坂学問所」が閉鎖されたのは明治3年。それから、本格的な学校制度が稼働するまでの数年間は、年表だけを見ていると教育の空白期間にも見えますが、実際には、漢学、筆道、珠算、英学、和漢洋の医学学校など、大小さまざまな学校が数多く生まれていました。明治6年までに東京府庁に提出された私立学校、私塾、家塾の開学願書は、なんと1800を超えていたそうです。 

 しかし、佐野鼎が創った共立学校は、そうした数ある私塾とは明らかに一線を画していました。というのも、洋学の気運が急激に高まりつつあった明治初期、英学校は数多くつくられていたものの、その大半は和訳偏重で、発音や会話、英作文の学習は二の次だったのです。たとえば、「unique(ユニーク)」を「あにき」、「oneday(ワンデイ)」を「おねだい」と発音するような教師が珍しくなかったというのですから、生徒たちも気の毒でした。

 そこで、佐野鼎は英学の授業には外人教師を積極的に雇用し、ネイティブな発音で会話のできる、いわゆる「正則英語」を目指しました。給料は日本人教師の10倍以上と高額だったそうですが、それだけに英学のレベルの高さにおいては定評があり、入学希望者も増えていきました。