ところで、そもそもなぜパレス乗馬倶楽部が発足したのか、なぜ存在し得たのかという素朴な疑問が残る。今回うかがった話を総合してみた。

 まず、それまで皇居には「主馬寮」(戦後、主馬班になる)という宮内省の中で皇室関係の馬事一般を扱う局があった。敗戦を受け、人も減り宮中内の厩舎にいる150頭もの馬たちの世話が難しくなってしまった。その一方、世が変わっても馬に乗る必要のある人たちは存在した。リストラを断行される主馬寮の職員、さらに元陸軍騎兵出身の腕に覚えのある馬術巧者たちも職を必要としていた。こうした戦後という時代ならでは事情が重なり、前代未聞の皇居内に乗馬クラブを作るというアイデアが現実のものになったのだ。結果として馬、指導者、そして乗り手を含め日本のどこにもないトップクラスの乗馬クラブがここに誕生した。このクラブは法人組織として発足する。

 前述の通り、当時、皇居内にはパレス乗馬倶楽部、主馬班、皇宮警察がそれぞれ馬術の技を磨いていた。それぞれ目的が異なるとはいえ、このように優れた馬と高い技術を持った馬術家が一堂に集まったことは、現在に至るまで一度もなかったであろう。わずか20年弱という短い期間ではあったが、今から見れば戦後まもなくの動乱期だからゆえに成し得た、あたかも奇跡のような、馬術家にとってはまさに夢の空間だったのではないだろうか。

右は、自らも馬術愛好家であった劇作家の木下順次から、その著著で「馬術の天下の名人」と称された“小松崎新吉郎”氏。左は、パレス乗馬倶楽部の馬の中で4名馬と賞賛された馬たちがおり、その中で名馬中の名馬といわれたのが“山吹号”。その山吹号で鮮やかな飛越を見せる彫刻家の西村修一氏。当時は慶応大学の学生であった
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 パレス乗馬倶楽部の消滅後、陸軍騎兵が磨き上げた馬術を受け継いだ人々は日本各地に散っていった。そして倶楽部のメンバーはそれぞれの事情に従い、新たな馬との付き合いを始めたようだ。

 日本の馬術の歴史の中で彗星の如く輝いた乗馬クラブがあったことを、後の世代に語り継ぐ役目をわれわれは担っているのではないだろうか。

◎本稿の執筆にご協力いただいた方々(五十音順、敬称略)
竹田恆和(写真提供)/西村修一(写真提供)/原昌三(写真提供)
安田信・安田幸子(「日米合同馬術大会」写真提供)/山蔦紘三郎(会員名簿提供)

 

(本稿は乗馬誌「エクウス」2012年12月号に掲載された記事を改稿したものです)