このクラブの顧問には遊佐幸平氏(元陸軍騎兵少将)、そして責任者は城戸俊三氏(元陸軍騎兵大佐)、さらに技術部のトップが印南清氏(元陸軍騎兵大佐)と名簿にその名が並ぶ。日本で馬術における唯一の金メダル保持者として西竹一(バロン西)氏がよく知られているが、西氏同様に彼らは当時の日本馬術界のまさに精鋭だ。さらに馬術の名人と声望高い小松崎新吉郎氏らがこのクラブで指導に当たっていた。

 豪放磊落な遊佐氏、折り目正しく謹厳実直な城戸氏という対照的なふたりだったが、その謦咳に接し、指導を受けた人たちはいまでもその人柄と馬術の指導を懐かしむ。このクラブの会員はこうした日本最高の馬術家の指導を受けられるという恵まれた環境にあった。

 このクラブに所属するにはメンバー3人からの推薦が必要だった。その名簿からも錚々(そうそう)たる人々の名が並び、そこから3人の推薦を得るのは一般の人には至難だったろう。しかし、馬術の実力者たちには門戸が開かれていた。当時、慶応大学に通っていた彫刻家の西村修一氏は学生チャンピオンということで倶楽部に入れたのだろうと回想する。

現天皇陛下の立太子を祝した立太子記念馬術大会

 多くの人たちが異口同音に伝えるのが、ここで行われた競技会の規模と華やかさだ。

 当時ほかではそうした大きな大会が行われておらず、この頃の競技会というとパレス乗馬倶楽部が思い浮かぶという。東京大会と呼ばれた競技会などでは、入場のためのチケットが販売され、馬場の周りを観衆が取り巻いたというから、今では想像できない光景だ。

 そうした競技会中で悲劇が起きた。

 西村氏の記憶に従うと、それは当時の皇太子殿下(現天皇陛下)が立太子となった1952年、これを記念して立太子記念馬術大会が開催された。この日は殿下も出場が予定されていた。殿下の前は、慶応大学の学生だった森村準次選手の出番だった。この日の障害の1つに固定障害があり、森村選手の馬(山桜号)が障害に前肢を引っかけ、人馬が転倒した。すぐに救急車を呼び宮内庁病院に搬送されたが、残念ながら死亡が確認された。

 このアクシデントのあと、殿下の出場について協議がなされた。当時、殿下のご教育係であった、慶応大学学長、小泉信三氏の意見を入れて、事故のあった障害を除き競技は続行されることになった。殿下も出場を承諾し、敢然と障害を飛越された。

マッカーサー夫人がトロフィーを贈呈

 1950年11月には、朝鮮戦争の勃発を受け、かの地で戦い傷ついた国連軍傷病兵の慰問金拠出と日米の交歓を目的に、パレス乗馬倶楽部で日米合同馬術大会が開催されている。