たった一人の人生では決して経験できないようなことを、小説は経験させてくれる。文学作品は、「人生の拡張」という、普通に生きていたらありえないようなことを体験させてくれるものだと言ってよいだろう。

 そうした心の綾をすべて捨象し、抽象化してしまった心理学では、人の心を理解することが難しい。よほど個人的に、人の心に関する豊穣な体験がなければ、心理学は頭でっかちを生んでしまいかねない。そう、天秤に「10g」と書いた紙を置いてしまった子どものように。

「遊んでいない」ゆとり世代

 ところが、次の記事によると、日本の学校教育から、小説などの文学作品が消えてしまう可能性があるのだという。

「戦後最大の『国語』改革で『文学』が消滅する」(http://bunshun.jp/articles/-/9806

 この記事によれば、選択肢として文学は残るには残るのだけれども、受験に有利な情報処理の方を選択する学生が大半となる可能性が高く、子どもたちが文学に触れる可能性を大きく減らしてしまうかもしれないのだという。

 私はこの記事を読んだとき、「ゆとり世代が大人になって『コミュニケーション能力』を求められるようになったのと、似たようなことにならないかなあ」と感じたのが、第一印象だった。

 ゆとり世代はよく、学力が低いと批判されることが多いが、私の見るところ、ゆとり世代ほど座学を長くやっている世代はない。なにしろ、「円周率を3と習うらしい。そんなことで受験戦争を勝ち抜けるのか?」と不安に思った保護者が、こぞって子どもを塾に通わせた世代だ。このため、ゆとり世代は習い事漬け。公園に行っても子どもの姿はなく、友達に会いたいなら塾に行くしかない、という時代だった。

 このため、ゆとり世代はあまり「遊んでいない」。その前の世代なら、ボールひとつ渡すだけで、10人、20人の群れ遊び(サッカーやドッジボール、キックベースボール)が始まったが、ゆとり世代はキョトンとして、2~3人の仲のよいグループに分かれてしまい、群れ遊びをすることができなかった。