非行に走る子は社会的資本や文化的資本の貧しい家庭で育っているケースが多い(写真はイメージです)

 前回、『彼らがヤクザになった理由――過酷な環境にいた少年たちを、社会は本気で救おうとしたのか』と題した記事を書いたところ、読者の方から、多くの示唆に富むご意見を頂いた。まさに賛否両論であったが、良くも悪くも、ヤクザの問題が「対岸の火事ではない」と感じて頂けたことは、筆者として嬉しい限りであった。そこで、紙幅の都合上書けなかった部分につき、今回、補足をしたいと思う。

福岡少年院(法務省ホームページより)

 ここ数年前から、「格差」というワードが頻出するようになった。一億総中流と言われた時代に生まれた筆者からすると、格差社会というものは社会の機能不全であり、何らかの処置を施す必要性を痛感する。そうしないと、様々な格差が、いわば肌の色のように世代から世代へと受け継がれる可能性が否めないからである。

 そう感じるのは、とりわけ筆者の職業から日々思い知らされるからである。筆者は、ノンフィクション作品や社会病理研究のため、大阪の西成のドヤ(簡易宿泊所)を拠点に取材をしている。さらに、地元の福岡県では、少年院在院者などに対して更生保護就労支援を行っている。関西では、元暴や姐さんと言われる方々のお宅にお邪魔し、福岡では非行少年の家族と接触している。実際、多くの家庭を見てきたわけであるが、残念ながら拙著『ヤクザになる理由』(新潮新書)で指摘した非行深化の要因が、肯定される結果となっている。

格差のタマゴ

 子は親の背を見て育つという。カエルの子はカエル。これらは至言であると、この年になってつくづく実感するようになった。その理由につき、あれこれ考えた結果、筆者は「人生とは様々な要因が縒り合されたロープに例えられる」と主張してきた。そして、「その始点は家庭である」とも述べた。